『君たちはどう生きるか』を観て
かなり早くテレビで流したなという感じがする。これは真人が継母を母として受け入れるためのプロセスを描いた作品だったのかなと思う。真人にとって継母はあまり好きではない存在で、「父さんの好きな人」に過ぎない存在であった。この言葉は自分とは直接の関係を持たないことを意味しており、自分の好きな父さんの好きな人という父さんを介した間接的な関係に過ぎないことを意味している。それが冒険の途中から、「なつこ母さん」という呼び方に変わった。これは真人と継母との間に直接的な関係ができたことを意味する。冒険全体がこの変化に寄与したと言えるのだが、直接的なきっかけは、実の母が継母のことを「私の妹」と表現したことが大きかっただろう。この言葉の真意はわからないのだが、この言葉により真人は、元々の母と継母との間につながりをつけることができた。「妹」というのは完全な分身ではないにしても、それに準じる濃厚なつながりを保持していることに他ならないからである。
「女性」は宮崎作品では常に重要な役割を演じる。たとえば、『紅の豚』おいて、ポルコの新しい飛行艇を作り上げたのは、ほとんどが女性の労働によるものであった。この作品においてもそれは継続しており、真人を助けたきりこは所有している風貌や性質は、ほとんど男性的であるにもかかわらず、やはり女性であるということ。ただこの助ける側と助けられる側との性別の関係性は、『千と千尋の神隠し』とは反転しているという点はある。「異性による助け」と表現すればそれは共通点になるが。
真人が最初から、雄々しさやたくましさを有しているというのは興味深い。この手のストーリー、つまり都会から田舎に疎開してきた少年は、最初は軟弱で冒険を経てたくましく成長するというのが典型だからである。真人の場合、最初からそのたくましさを比較的有している。真人からアシタカを想起した人も多かったのではないか。それはこの作品がその点での成長を描こうとしたわけではないからである。何か別の点での成長、上記の継母の受け入れというのはそれの一つではあるのだが。
真人のもう一つの成長は、「老人とのつながりの回復」、もしくは「世代間継承に自分を位置づけること」である。この作品で目立つのは「老い」である。具体的に言えば、召使の老婆たちと大叔父様である。彼らは見た目の老い、つまりしわなども徹底して描かれている。真人は、普段から老婆たちに助けられている。細かい描写であるが、真人が床に落とした手ぬぐいを拾うのも老婆であり、粉々になった木刀の片付けをするのも老婆である。真人はこれに感謝することはおろか気付いてすらいない。老婆たちと食事を共にしても「おいしくない」と無下に切り捨てる始末である。これが真人と老人との関わり方なのである。一方、若きりこの助け方は有無を言わさぬものである。これには真人も感謝せざるを得ない。そしてこの助け方は、若きりこの壮健な肉体性を基盤としたものである。だがその本体は実は老きりこなのであり、若きりこがお守りとして渡した人形も老きりこなのであった。この冒険の後には、真人は老きりこに対する見方を変えざるを得ない。彼の新生活に老きりこはいないかもしれないが、老人一般に対する見方が変わるだろう。さらに言えば、「人から助けられていること」に対する感性が変わるともいえる。
世代間継承の方は、一つは大叔父様からの継承である。大叔父様は世界の統括者なのであるが、この世界がどこまでの世界を指しているのかは不明である。異界のみなのか、現実も含めた世界全体なのか、それとも真人の内的世界なのか、それともこれらの世界は全て同じものなのか。そして象徴的なのは、積み木の存在である。この具体的事物がそのまま世界の構造に影響を与えるような示唆があり、これはフラクタル構造ともいえるし(小さいものの構造と大きいものとの構造が等しくなっている)、一時期流行した「セカイ系」(自らの行動が世界全体に影響を与える)を思い起こさせる。いずれにしても大叔父様は何かを真人に継承しようとしており、結局大叔父様の世界は壊れてしまう。またそこから、真人の新生活が始まるのであり、破壊と再生のモチーフがみられる。
世代間継承のもう一つは、なつこの妊娠である。命を宿したなつこを助けることにより、真人は図らずとも世代間継承に一役買うことになる。このような「老人と赤子」のモチーフは『千と千尋』でも出てくるものである。終わる命と始まる命の循環であり、その狭間に真人は位置しており、冒険を通じて真人はそれを自覚することになり、今までとは違う感覚で人生を送ることになるだろう。「継母との関係の回復」「老人との関係の回復」「世代間への自分の位置づけ」、これらのことをまとめると真人の成長は「他者との関係性の回復」だったといえるのではないだろうか。
この作品はすごく陳腐な見方をしてしまえば、ひと夏を田舎で過ごすことにより、そこでの出会いや経験から都会の少年が成長する物語という典型にカテゴライズしてしまえるのだが、それが宮崎駿の手にかかるとここまで壮大なファンタジーになるというのが流石である。人が成長し変容を遂げるためには、異界での冒険をくぐりぬけて帰ってこなければならないのである。