『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』メモ書き
当然だが、拝金主義ではない。むしろ、プロテスタント(特にピューリタン)は禁欲で有名であり、営利の追求を嫌った。 清貧、といった概念は一切出てこない。(貧すれば鈍し)
「金持ちが神の国に入るのはなんと難しいことだろう」を、文字通りに捉えてはいけない。
ドイツ🇩🇪における問題から始まる。
Amazon Audibleで聴くこともできます。
キリスト教や経済史に興味がある方は読んでみるのがいいでしょう。
訳者解説が後ろにあるので、大まかな要約はここで知ることができる。
本文だけでなく、注釈もちゃんと読むことを推奨。
ヴェーバーは多元論の立場を取っているので、プロテスタンティズムが近代の資本主義文化を作ったとか、近代の資本主義社会は宗教改革の産物であるとか、そういうことを言おうとしたわけではない。宗教改革後の一時期に、複雑な歴史の織り成す布の中の一つの、大切な横糸か縦糸を、世俗内的禁欲が付け加えたのではないか、というだけなのである。
あくまで説のひとつであり、確定した事実ではない。
論文の形式であり、本書の結論は大して重要ではない。
大事なのは、そこに向かうまでの論理の組み立て方・登場する概念である。
ベンジャミン・フランクリン
「時間は貨幣だ」
「正直は最良の政策」(信用に関するフランクリンの所論)
営利(利益)を求めること、利子を取ること
・カトリック:条件付きで許容されていた、(道徳的には)良くないことだが生きるためには仕方ない
・プロテスタント(ピュウリタン):積極的に道徳的に良いことである
神が信徒の一人に利得の機会を与え給ふた
1.世俗内的禁欲の宗教的諸基盤
①カルヴァン派(カルヴィニズム)、それと何らかの関係がある、そうした点でその影響下にあった敬虔派、メソジスト派
②洗礼派
禁欲≠苦行・修行
イメージするような修行僧ではなく、ある特定の物事に進むにあたって、それ以外のものを要求しない態度を指す。
カトリック
世俗外の修道院で禁欲生活が行われていた。
カルヴァン派、洗礼派
世俗生活内でも禁欲生活を取り入れた。日常生活のキリスト教化を徹底した。合理的に。
ルッター派の時点では、今日の資本主義につながるような精神は見えない。
禁欲した分の資産を再び投資に回す
中世の貴族のような成金を嫌う
浪費しない
呪術的、儀式的
ルッター派
原罪、懺悔(ざんげ)重視、実践生活における聖潔ではなく、罪の赦しを最も重要と考える
神秘的合一
恩恵は回復可能だ
カルヴァン派・カルヴィニズム、洗礼派
合理的、禁欲的
聖書偏重、十戒+福音、日常の世俗生活から徹底的なキリスト教化
予定説(イスラムとは異なる)、あらかじめ選ばれている、救いの確証、それは自己診断で判明する、確証を得るために現世での行為重視、職業労働
そうしたものたちの集まり、諸信団(ゼクテ)、貴族主義
良き行為を行わないものは真の信者ではないことを強調した、恩恵の地位にあるという感情が加わる必要あり
クエイカー派(バークリー属する、洗礼派の一つ)
カルヴァン派の「生活の合理化」はこちらでも同じである。
聖書主義、理性と良心における聖霊の内面の証し、心への働きかけ、に決定的な重要性を認める、という教説が生まれた
現世、この世偏重的な人、この世のあらゆる快楽からはっきりと離れ去り、厳密に使徒の生涯を模範とする、肉の欲を消し去る
あらゆる「被造物の神化」を排斥する、偶像崇拝にあたるとして
2 禁欲と資本主義精神
バックスターの勤労偏重、シュペーナーにも見られる
利子(配当所得)で生活できるものも神の命令に従って労働の義務があるとされた
トマス・アクイーナスとの違い
パウロの命題「働こうとしないものは食べることもしてはならない」
ユダヤ教:どこまでも伝統主義だった。
彼らのさかんな商業・金融活動(金貸しなど)の中からは、結局は近代資本主義の萌芽は生まれなかった。
ピュウリタンの市民的勤労意識は、ユダヤ教のそれとは異なるし、対立した。
ピュウリタンにとっては、神の意志か、被造物的虚栄か、の二者択一があるだけだった。
代々の大商人・大資本家と市民的な小資本家・労働者(ピュウリタン)との対立
鉄の檻