『「いき」の構造』を読む
https://gyazo.com/c10607e0fbfac13fc28b913bb6ca24f0
まずは前置きと「いき」をどう取り扱っていくかみたいな態度表明みたいな話なので、ここすっ飛ばして** いきの内包的構造から読むのもあり 「いき」は我々日本人の国語のなかに存在するが、「いき」という言葉は世界で普遍性をもちうるのか、それを先に考えないと「いき」の構造について語れないと九鬼しゃんは言う。「いき」が他国で通用しない特殊な民族性を持った意味だとしたらどう?特殊の文化存在はいかなる方法論的態度をもって取扱わるべきものであろうか。先にその問題について考える、みたいな
民族の生きた存在が意味および言語を創造する
自然現象に属する言語は普遍性をもつが、絶対ではない
一例を挙げれば Sehnsucht という語はドイツ民族が産んだ言葉であって、ドイツ民族とは有機的関係をもっている。陰鬱な気候風土や戦乱の下に悩んだ民族が明るい幸ある世界に憬れる意識である。レモンの花咲く国に憧れるのは単にミニョンの思郷の情のみではない。ドイツ国民全体の明るい南に対する悩ましい憧憬である。フランス語のうちに Sehnsucht の意味を表現する語のない
あとエスプリとかガイストとかの例(他にもいろいろ)
ある特殊な語を他国の語で訳すときに類似性から"それ"にあたるものとして当てられるが、本来の意味内容に他の新しい色彩を帯びさせられている
「いき」も同じで、欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない
「いき」という日本語もこの種の民族的色彩の著しい語の一つである
フランス語で「いき」と類似しそうな言葉があるとすれば「chic」である
しかし「chic」は「いき」と「上品」を包摂し、「野暮」「下品」などに対して、趣味の「繊巧」または「卓越」を表明している
「coquet」はどうか
この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏が数羽の牝鶏に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的」を意味する
「coquet」はいきの徴表(徴表ってなんだよ)のひとつを形成しているが、他の徴表が加わらんと「いき」の意味を生じては来ない。徴表結合の如何によっては「下品」ともなり「甘く」もなるらしい
〔raffine'〕という言葉もあるがこれも微妙に違う
とりあえずここまでの検証で「いき」は大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えられる(検証が足りてるかは不明)
もとより「いき」と類似の意味を西洋文化のうちに索めて、形式化的抽象によって何らか共通点を見出すことは決して不可能ではない。しかしながら、それは民族の存在様態としての文化存在の理解には適切な方法論的態度ではない(たし蟹)
文化存在の理解の要諦は、事実としての具体性を害うことなくありのままの生ける形態において把握することである
ベルクソンは、薔薇の匂を嗅いで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。(なんかかっこいいぬ)
薔薇の匂いという一定不変なものが存在するのではなく、内容を異にした個々の匂いがある(文化も似たような話かねえ)
「いき」の現象の把握に関して方法論的考察をする場合に、我々はほかでもない universalia の問題に面接している(なにそれ)
我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覚悟を要する
すなわち、「いき」を単に種概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問う前に、まず「いき」の existentia を問うべきである。一言にしていえば「いき」の研究は「形相的」であってはならない。「解釈的」であるべきはずである しからば、民族的具体の形で体験される意味としての「いき」はいかなる構造をもっているか。我々はまず意識現象の名の下に成立する存在様態としての「いき」を会得し、ついで客観的表現を取った存在様態としての「いき」の理解に進まなければならぬ
ばる.iconなんかややこしい言い回しだが、要するに民族的特殊性をもつ「いき」の構造を考えるならば、先に客観的表現のそれとして分析してしまって、抽象的普遍性や形相的に流れてはいかん。意識現象としての「いき」の会得から始めないとあかんってことかな
前置きすっ飛ばして
ここから読んでもいいと思う↓
いきの内包的構造
まずいきの意味内容を形成する微表(微表ってのは、ある事物の特徴を表すもので、それによって他の事物から区別する性質らしい)を"内包的"に識別して意味を判明させる
まとめると、微表は3つからなるらしい
① 媚態
異性との関係
「いきごと」「いろごと」
いきな話とは、異性との交渉の話がしめている
媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である
「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いわゆる「上品」は違うらしく、この二元性の欠乏を示している
異性の征服が達成された場合、媚態は消滅する
②意気地
「意気」すなわち「意気地」
江戸文化の道徳的理想
江戸っこの気概
武士道からきてる?
「武士は食わねど高楊枝」→江戸っこ「宵越の銭を持たぬ」
誇り
「いき」は媚態でありながら異性に対して一種の反抗を示すが、これは意気地によるもの
理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色である
③諦め
運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心
「いき」の垢抜け、あっさり、すっきり、解脱、瀟洒たる心持ち
異性間の問題での裏切り
恋の実現に関して幻滅の悩みを経験
魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなる
厭世的な結論
「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界」にその起原をもっている
「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する執着を離れた未練のない恬淡無碍の心である
流転、無常を差別相の形式と見、空無、涅槃を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない
以上を概括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している
?媚態と意気地と諦めって相容れないものっぽけどどうなん?
「意気地」は理想主義のもたらした心の強みで、媚態の一層の緊張と持久力を提供する
「意気地」は「媚態」の存在性を強調する
媚態の二元的可能性を「意気地」によって限定することは、自由の擁護を高唱するに他ならない?
媚態は自己に忠実なものである
媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、その媚態そのものの存在性を開示することができる
媚態と諦めの結合は、自由への帰依が運命によって強要され、可能性の措定が必然性によって規定されたことを意味している?
つまり「諦め」という否定による肯定で媚態が際立つということかぬ
要するに(ここ重要)
「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである
「いき」とは、わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる
いきと上品、下品
上品とは品柄の勝れたもの、下品とは品柄の劣ったものを指している
上品、下品は、人事関係、特に社会的階級性に関係したものとして見られている
上品は公共圏に属するもので、媚態のようなものと関係がない
「いき」と上品との関係は、一方に趣味の卓越という意味で有価値的であるという共通点を有し、他方に媚態の有無という差異点を有するものと考えられる
下品も媚態と関係がない
ただ媚態と一定の関係に置かれやすい
「いき」が有価値的であるに対して下品は反価値的である
一般に上品に或るものを加えて「いき」となり、更に加えて或る程度を越えると下品になるという見方がある。上品と「いき」とは共に有価値的でありながら或るものの有無によって区別される。その或るものを「いき」は反価値的な下品と共有している。それ故に「いき」は上品と下品との中間者としてみられる
いきと派手と地味とさび
「いき」と「派手」は媚態を示し得るところが似通っているが、「派手」は「いき」にある「諦め」と相容れない
「地味」は「いき」のような媚態をもちえないが、「さび」を見せて「いき」のうちの「諦め」に通う可能性をもっている
いきと野暮
意気といい粋といい、いずれも肯定的にいい表わされている。それに反して野暮は同義語として、否定的に言表された不意気と不粋とを有する。我々はこれによって「いき」が原本的で、ついで野暮がその反対意味として発生したことを知り得るとともに、異性的特殊性の公共圏内にあっては「いき」は有価値的として、野暮は反価値的として判断されることを想像することができる
いきと渋味、甘味
渋味─甘味は対他性から見た区別で、かつまた、それ自身には何らの価値判断を含んでいない
渋味は消極的対他性
甘味は積極的対他性
渋味と甘味それ自身には一定の価値判断は担っていない。価値的意味はその場合場合の背景によって生じる
渋味および甘味は「いき」とはいかなる関係に立っているか。三者とも異性的特殊存在の様態である。そうして、甘味を常態と考えて、対他的消極性の方向へ移り行くときに、「いき」を経て渋味に到る路があることに気附くのである。この意味において、甘味と「いき」と渋味とは直線的関係に立っている。そうして「いき」は肯定より否定への進路の中間に位している
四章は意識現象でなく、客観的表現をとった「いき」の把握
「いき」の自然形式、身体的発表
ざっくり言うと「いき」な仕草みたいな話だろう
聴覚
言葉遣い
発音の仕方、抑揚
一語を普通よりもやや長く引いて発音し、しかる後、急に抑揚を附けて言い切ることは言葉遣としての「いき」の基礎をなしている
長く引いた部分と言い切りの部分に言葉のリズム上二元的対立が発生し、この二元的対立が「いき」のうちの媚態の二元性の客観的表現と解される
さらに甲高い最高音よりややさびの加わった次高音がよい
視覚
姿勢、身振その他を含めた広義の表情
全身に関しては、姿勢を軽く崩すことが「いき」の表現である
腰部を左右に振って現実の露骨のうちに演ずる西洋流の媚態は、「いき」とは極めて縁遠い
姿勢の相称性が打破せらるる場合に、中央の垂直線が、曲線への推移において、非現実的理想主義を自覚することが、「いき」の表現としては重要なことである
うすものを身に纏うこと
浮世絵
質料因と形相因との関係が、うすものの透かしによる異性への通路開放と、うすものの覆いによる通路封鎖として表現されている。メディチのヴェヌスは裸体に加えた両手の位置によって特に媚態を言表しているが、言表の仕方があまりにあからさまに過ぎて「いき」とはいえない
湯上がり姿
あっさりした浴衣を無造作に着ているところ
「垢抜」した湯上り姿
湯上がり姿は浮世絵にも散見される
西洋の絵画では、湯に入っている女の裸体姿は往々あるにかかわらず、湯上り姿はほとんど見出すことができない
姿が細っそりして柳腰であることが、「いき」の客観的表現の一と考え得る
細長い形状は、肉の衰えを示すとともに霊の力を語る。精神自体を表現しようとしたグレコは、細長い絵ばかり描いた。ゴシックの彫刻も細長いことを特徴としている。我々の想像する幽霊も常に細長い形をもっている
顔面も同様で、丸顔よりも細おもての方が「いき」に適合している
顔面の表情が「いき」なるためには、眼と口と頬とに弛緩と緊張とを要する
流し目
異性への運動を示すために、眼の平衡を破って常態を崩すこと
単に「色目」だけでは未だ「いき」ではない。「いき」であるためには、なお眼が過去の潤いを想起させるだけの一種の光沢を帯び、瞳はかろらかな諦めと凛乎とした張りとを無言のうちに有力に語っていなければならぬ
口は、異性間の通路としての現実性を具備していることと、運動について大なる可能性をもっていること
唇の微動のリズム
顔面における「いき」の表現は、片目を塞いだり、口部を突出させたり、「双頬でジャズを演奏する」などの西洋流の野暮さと絶縁することを予件としている
顔の粧いに関しては、薄化粧がいき
京阪の女は濃艶な厚化粧を施したが、江戸ではそれを野暮と卑しんだ
髪は略式のものが「いき」を表現する
正式な平衡を破って、髪の形を崩すところに異性へ向って動く二元的「媚態」が表われてくる。またその崩し方が軽妙である点に「垢抜」が表現される
左褄を取る
素足
手は媚態と深い関係をもっている。
「いき」な手附は手を軽く反らせることや曲げることのニュアンスのうちに見られる
以上
意識現象としての「いき」は、異性に対する二元的措定としての媚態が、理想主義的非現実性によって完成されたものであった。その客観的表現である自然形式の要点は、一元的平衡を軽妙に打破して二元性を暗示するという形を採るものとして闡明された。そうして、平衡を打破して二元性を措定する点に「いき」の質料因たる媚態が表現され、打破の仕方のもつ性格に形相因たる理想主義的非現実性が認められた
味覚、嗅覚、触覚
「いき」な味は、味覚の上に「きのめ」や柚の嗅覚や、山椒や山葵の触覚のようなものの加わった、刺戟の強い、複雑なもの
あと淡白なもの(白身とか)
九鬼は味覚、嗅覚、触覚は身体的発表としての「いき」の表現にならんと言う。身体的発表としての「いき」の自然形式は、聴覚と視覚に関するものと考えて差支ないであろう
いきの芸術的表現について
まず九鬼は、芸術を客観的芸術(絵画、彫刻、詩)と主観的芸術(模様、建築、音楽)に分類する
絵画および彫刻は「いき」の表現の自然形式をそのまま内容として表出することができる。また広義の詩、すなわち文学的生産一般は「いき」の表情、身振を描写し得るほかに、意識現象としての「いき」を描写することができる
しかし、客観的芸術は、「いき」の内容の例として出すのは便利だが、「いき」の芸術形式が必ずしも鮮明な一義的な形をもっては表われていない。
それに反して、主観的芸術は具体的な「いき」を内容として取扱う可能性を多くもたないために、抽象的な形式そのものに表現の全責任を託し、その結果、「いき」の芸術形式はかえって鮮やかな形をもって表われてくるのである
①模様
模様は「いき」にめっちゃ大事
媚態の二元性が表される
平行線(縞模様)
横縞より縦縞
縦縞は平行線を容易に知覚できる(両目の知覚の問題)
重力(縦は落下→軽妙)
縦縞は細長く見せる
縦縞が「いき」であるのは、平行線としての二元性が一層明瞭に表われているためと、軽巧精粋の味が一層多く出ているためであろう
ただ、横縞も縦縞と組み合わせることで「いき」に見せることができる
しかし、縦横縞は概して縦縞よりも横縞よりも「いき」でない。平行線の把握が容易の度を減じたからである
縞模様のうちでも放射状に一点に集中した縞は「いき」ではない。例えば轆轤に集中する傘の骨、要に向って走る扇の骨、中心を有する蜘蛛の巣、光を四方へ射出する旭日などから暗示を得た縞模様は「いき」の表現とはならない。「いき」を現わすには無関心性、無目的性が視覚上にあらわれていなければならぬ
格子縞はその細長さによってしばしば碁盤縞よりも「いき」である
複雑な模様も基本いきじゃない
あと曲線は、すっきりした、意気地ある「いき」の表現には適しない
冷たい無関心
また幾何学的模様に対して絵画的模様なるものは決して「いき」ではない
絵画的模様はその性質上、二元性をすっきりと言表わすという可能性を、幾何学的模様ほどにはもっていない
いきがが模様として客観化されるのは幾何学的模様のうちにおいてである
模様の色彩について
雑多な色取はいきではない
派手な色彩でないもの
「いき」な色彩とは、まず灰色、褐色、青色の三系統のいずれにか属するものと考えて差支ないであろう
鼠色は「深川ねずみ辰巳ふう」といわれるように「いき」なものである。鼠色、すなわち灰色は白から黒に推移する無色感覚の段階である。そうして、色彩感覚のすべての色調が飽和の度を減じた究極は灰色になってしまう。灰色は飽和度の減少、すなわち色の淡さそのものを表わしている光覚である。「いき」のうちの「諦め」を色彩として表わせば灰色ほど適切なものはほかにない
もとより色彩だけを抽象して考える場合には、灰色はあまりに「色気」がなくて「いき」の媚態を表わし得ないであろう
しかし具体的な模様においては、灰色は必ず二元性を主張する形状に伴っている。そうしてその場合、多くは形状が「いき」の質料因たる二元的媚態を表わし、灰色が形相因たる理想主義的非現実性を表わしているのである
褐色、つまり茶色とはいかなる色であるかというに、赤から橙を経て黄に至る派手やかな色調が、黒味を帯びて飽和の度の減じたものである。茶色が「いき」であるのは、一方に色調の華やかな性質と、他方に飽和度の減少とが、諦めを知る媚態、垢抜した色気を表現しているからである
「いき」であるかということを考えてみるに、何らかの意味で黒味に適するような色調でなければならぬ。
赤、橙、黄は網膜の暗順応に添おうとしない色である。黒味を帯びてゆく心には失われ行く色である。それに反して、緑、青、菫は魂の薄明視に未だ残っている色である。それ故に、色調のみについていえば、赤、黄などいわゆる異化作用の色よりも、緑、青など同化作用の色の方が「いき」であるといい得る。また、赤系統の温色よりも、青中心の冷色の方が「いき」であるといっても差支ない。したがって紺や藍は「いき」であることができる。
要するに、「いき」な色とはいわば華やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に生きている。個人的または社会的体験に基づいた冷やかな知見が可能性としての「いき」を支配している。温色の興奮を味わい尽した魂が補色残像として冷色のうちに沈静を汲むのである。また、「いき」は色気のうちに色盲の灰色を蔵している。色に染みつつ色に泥まないのが「いき」である。「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿している
②建築
建築上の「いき」は茶屋建築
二元のために、特に二元の隔在的沈潜のために形成さるる内部空間は、排他的完結性と求心的緊密性とを具現していなければならぬ
四畳半から遠ざからないこと
外形が内部空間の形成原理に間接に規定さるる限り、茶屋の外形全体は一定度の大きさを越えてはならない
「いき」な建築にあっては、内部外部の別なく、材料の選択と区劃の仕方によって、媚態の二元性が表現されている
材料上の二元性は木材と竹材との対照(二元的対立)
室内は天井と床の対立
材料上の相違によって強調する
さらに、天井、床それぞれ二元性が表現されている
しかし、「いき」な建築にあってはこれら二元性の主張はもとより煩雑に陥ってはならない
模様と同じで曲線を避ける
建築の様式上に表わるる媚態の二元性を理想主義的非現実性の意味に様態化するものには、材料の色彩(灰色と茶色と青色)と採光照明の方法とがある
四畳半の採光は光線の強烈を求むべきではない。外界よりの光を庇、袖垣、または庭の木立で適宜に遮断することを要する
淡い行燈
③音楽
音楽上の「いき」は旋律とリズムの二方面に表われている
旋律
ここ専門的で少し難しいが、都節音階というのは理論上の律旋法(ド、レ、ファ、ソ、ラ、ドなど)に近いが、実際は理論的に多少変位部分があり(つまり理想体への変位)、それが「いき」を呼び起こすような話だろう
その変位が大きすぎれば下品に、収まり過ぎれば上品になりすぎる
リズム
わが国の音楽では多くの場合において唄のリズムと伴奏器楽のリズムとが一致せず、両者間に多少の変位が存在するのである。長唄において「せりふ」に三絃を附したところでは両者のリズムが一致している。その他でも両者のリズムの一致している場合には、多くは単調を感ぜしめる。「いき」な音曲においては変位は多く一リズムの四分の一に近い
要するに旋律もリズムも、「いき」は、音階の理想体の一元的平衡を打破して、変位の形で二元性を措定することに存する
あとまあ楽曲の形もうんぬん
「いき」の客観的表現の芸術形式は、平面的な模様および立体的な建築において空間的発表をなし、無形的な音楽において時間的発表をなしているが、その発表はいずれの場合においても、一方に二元性の措定と、他方にその措定の仕方に伴う一定の性格とを示している。更にまたこの芸術形式と自然形式とを比較するに、両者間にも否むべからざる一致が存している。そうして、この芸術形式および自然形式は、常に意識現象としての「いき」の客観的表現として理解することができる。客観的に見られる二元性措定は意識現象としての「いき」の質料因たる「媚態」に基礎を有し、措定の仕方に伴う一定の性格はその形相因たる「意気地」と「諦め」とに基礎をもっている。
結論
『いき」を分析して得られた抽象的概念契機は、具体的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過ぎない。「いき」は個々の概念契機に分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することはできない。「媚態」といい、「意気地」といい、「諦め」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。それ故に概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙がある。
もっかい最初に戻り、「いき」の構造を理解するためにはーー客観的表現から見てもダメで、意識現象から始めないとーーみたいな話
「いき」の構造の理解をその客観的表現に基礎附けようとすることは大なる誤謬である。「いき」はその客観的表現にあっては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表わしているとは限らない。客観化は種々の制約の拘束の下に成立する
「いき」の研究をその客観的表現としての自然形式または芸術形式の理解から始めることは徒労に近い。まず意識現象としての「いき」の意味を民族的具体において解釈的に把握し、しかる後その会得に基づいて自然形式および芸術形式に現われたる客観的表現を妥当に理解することができるのである。一言にしていえば、「いき」の研究は民族的存在の解釈学としてのみ成立し得るのである。
「いき」の芸術形式と同一のものをたとえ西洋の芸術中に見出す場合があったとしても、それを直ちに体験としての「いき」の客観的表現と看做し、西洋文化のうちに「いき」の存在を推定することはできない。
「いき」とダンディズム似てるんちゃう?みたいな話
だけど、ダンディズムは男性にしか適用されん。「いき」は女性によってまで呼吸されることに特色がある
さて、結論めいた文章
「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きる{13}のが「いき」である。人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬を懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。 「いき」の核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解とを得たのである。
※最後の注釈に、「いき」の語源について書いてある。生、息、行、意気が関係しているが、「生」が基本的地平である。
第一は「生きる」だが、いきの質料因たる媚態は、生きることから生じている。
「息」は「生きる」ための生理的条件である。
「意気ざし」は、「息ざしもせず窺へば」の「息差」から来たものに相違ない。
また「行」も「生きる」ことと不離の関係をもっている。「意気方よし」とは「行きかた善し」にほかならない。
「息」は「意気ざし」の形で、「行」は「意気方」と「心意気」の形で、いずれも「生きる」ことの第二の意味を予料している。それは精神的に「生きる」ことである。「いき」の形相因たる「意気地」と「諦め」とは、この意味の「生きる」ことに根ざしている。そうして、「息」および「行」は、「意気」の地平に高められたときに、「生」の原本性に帰ったのである。換言すれば、「意気」が原本的意味において「生きる」ことである。
感想
ばる.icon僕の中にある価値観に「いき」があるんじゃないかと勝手に勘違いして読み始めたが、あるかもしれないしないかもしれないという感想にいたった。ただ、「諦念」という感覚は自分の中には含まれている気がするし、ある対象を評価する物差しとして何かしらの美意識があり、「こりゃいきじゃねえなあ」ですますことができれば素敵だと思っている。「その「いき」ってのはなんなんでやんすか」と問われても、「つまり質料因たる媚態が形相因たる意気地と諦めによって霊化してだな」と説明することができるので、九鬼シャンには感謝しかない。