「階層」を下るのではなく「話」を掘ってゆく
会話のなかのエピソード
まずかったところ
エピソードだと小さすぎる
改善点
複数のエピソードを包含する「話題」をページの単位に据える
例
あ行の下にあいうえおがある
『純粋理性批判』の下に「超越論的な原理論」がある
話に階層はない
例
『純粋理性批判』の話も「超越論的な原理論」の話も同じレベルそれぞれが独自の水準としてある。
たしかに後者はより詳しい話であるかもしれないが、これは階層の違いではない。
これはいわば聞き手が話題に関心を持ちうる確率の違いだ。
話には順番がある
ネットワーク型ノート > 考え方 > 階層構造とは別な構造 >
話の構造 > 話の要素 > 話を掘り下げる >
話題にして、それについて話す
元々話していたことと結びつけたりする
階層構造否定との接点 >
まだ静的になっていない知識状態に対して素直になる
思いがけない展開を許すということ
ネットワーク型ノート > 考え方 > ページ移動 > イメージ >
話の比喩 > 言葉から話題への昇格としてのページ移動 >
会話が進むと、あるエピソード発言が話題に昇格することがある 発言から話題への昇格 > 例 >
『純粋理性批判』についての話していた
途中でヒュームの名前が出てきた
ヒューム面白いよね、みたいな流れに成る
「じゃあ、ヒュームについて話しましょう」という展開になる。
〈ページを移動する〉というScrapbox上の動作を、〈会話の中のある事象が話題に昇格する〉という出来事のアナロジーとして捉えてみる
〈『純粋理性批判』の話をしているときに「じゃあヒュームの話をしよう」とヒュームの話に移ること〉が、〈『純粋理性批判』というページのなかの「[ヒューム]」というハイパーリンクをクリックすること〉に該当すると考えてみる。
知 > インデックスしか知らない知 > それについての話 >
例
「ハーバーマスって哲学者いるんですよ」……「とにかくいるんです」(了)
「GoってGoogleが開発したプログラミング言語なんですよ」……「Googleなんすよ」(了)
言葉しか知らない知識についてその場で調べれば、もう少し話すことができる
このページ > 結論 > 一応の結論 > 実験的方針案 >
ある話題(タイトル)についてみんなで語り尽くす
その話のなかで出てきたキーワードやキー概念を掘り下げるためにリンクにする
リンク先で〈別な話題を語り尽くす〉
テキストのある部分について、「この範囲は別な話に該当する」と分かったら、それは別なページに移す
この吟味作業のためには、すべてのテキストを位置づける必要がある
例えば、テキストをクラインとして整理する、など
クラインに位置を与えて、それぞれの位置づけをもとにして、〈同じ話〉を同定していく
また、テキストを一意に位置づけるためには、何らかの関心があったほうがいい
例えば、ある概念を自分の人生において位置づけるか、図書分類法的に位置づけるかによって、位置づけ方は変わってくる。例えば、『純粋理性批判』を〈哲学〉というカテゴリの下に置くか、〈超好きな本〉というカテゴリの下に置くか、といった違いが起こる。 ネットワーク型ノートはそういう複数カテゴリの問題が起こらないのではないかと思われるかもしれない。
しかし、それはページ間での話であって、私たちの関心およびページ本文においては、テキストは特定の位置を占めることとなる。具体的に言えば、ひとつの行は別な行の下にしか置かれることができない。なぜなら、ページ(複数の行の集合)は二次元的だからだ。
では、どのように位置づけするか。ひとつの案としては、〈アープラにおいて位置づける〉というやり方。これの具体的な内容は不明だが、曖昧なままでもいいので、アープラにおいてある言葉や概念をどう位置づけるか……という観点で全てのクラインを位置づけていく作業を行ってみてもいいだろう。例えば、『純粋理性批判』は、〈読書会の課題本になったことがある本〉というカテゴリの下に位置づけられたりする。これは、アープラという観点があってこその位置づけである。(※別な場所でも腐るほど課題にされているだろうけど。)
こういうことはプロジェクト化しないと実現しない。例えば、YouTube動画を作るとき、動画のテーマごとに語り尽くし作業するとか、そういうコンテンツのための取材を共同でやるといった目的がないと実行されない。
ただし、個人であればいくらでもやれるし、久住哲.iconは個人でそれをやりたい。