「議論をうまくやる方法」についての議論
議論をうまくやる方法
そもそも「議論をうまくやる」ってなんだ?
議論をうまくやる、とは、「目的達成のために適切な手続きを踏む」という感じがする。cman.icon
議論の目的とはどういうものだろう?
問題解決
お互いの考え方や意見を知る
知的戯れ
議論の種類に目的による議論の分類を書き足したcman.icon ここで話すべきなのはどの議論についてだろうか?という疑問がある。
cman.iconの感覚はニコニコ大百科の分類が基本になっているので
久住哲.iconこの点をまず片づけておく必要がある。なので、「議論を分類する」という別な見出しを立ててそれを論じ尽くしておく必要がある。
議論を分類する
久住哲.icon「議論」という言葉の意味は、まず2つに分けられる。主体が1人であるそれか、主体が複数人であるそれか、だ。
主体がひとりであるそれ、とは?
久住哲.iconそうです。「主体が1人であるそれ」を何と呼んでもいいでしょうけれど、「立論」とか「言説」とか呼んでいいものじゃないかと思う 久住哲.iconこのページで問題にされているのは「主体が複数人であるそれ」だろう。「話し合い」とか「討議」とか「討論」とか「対話」とか「相談」とか「会話」とか呼ばれるもの。
いっぽう「真面目さを遊ぶ」ような種類の議論がある。
ディベートとか
「はい論破!」みたいなやつ
これをもとにニコニコ大百科で紹介されている3種類の議論を見てみる
「討論」は「遊戯としての議論」である。なぜなら、それは、審判に意見を採用されるためのゲームだからだ。
「議決」は「遊戯としての議論」である。
なぜなら、真面目な議論で求められるのは、「われわれ」が話し合いを経てどういう風に、何を、やっていくかを決めることだからだ。
「優れた結論」それ自体が求められるのではないし、まして、どういったものが優れているのかを多数決で決めることでもない。しかし、これはそのようなゲームとしては十分に成立している。
「対話」は議論ではない。ただし、対話のうちに議論が含まれる場合はある。また、議論のうちに対話が含まれる場合もある。
結論として、久住哲.iconは以上の3つはどれも「真面目な議論」ではないと考える。
真面目な議論の例→「昼飯なに食う?」「俺は麺類がいい」「僕はパスタがいい」「さて、どうしよう」
cman.icon「討論」が行われてる場面が会社であり審判が意志決定の権限を持っており、そして採用された意見を行動方針として採用する場合、実際的真面目さがあるので真面目な議論だ!となるのだろうか?
cman.icon「対話」の“互いの理解を深める”の対象が自分自身の構成要素である場合、それは人生論的真面目さを伴うのだろうか?