「詰将棋的な議論」
目的や結論にこだわらず、論理を戦わせるような議論。
はじめ.iconさんが言った表現だったかと思う
そうですね、この「詰将棋」という表現は「一人でやっている」という所に一つのポイントがあります。「将棋」ではなく「詰将棋」という点が重要ですね。詰将棋において自分では完全に王手をかけて、「詰み」の状態にまで達した段階で議論を提示するのですが、相手はそれを軽々と乗り越えて反論を繰り出してくるので、提示した方は面食らってしまうという状態ですね。「詰み」だったはずなのに、って。そうなると、相手は議論に誠実でないとか、段々感情的になってしまうんですね。ただ本当はいつも人との会話は、一人の世界で行うものではないので、相手が自分の想定外の反応をしてくる可能性というのは、想定内のこととしておく必要があるんですよね。考えることが得意なのだけど、自分一人の世界で考えることが多くて、あまり人と自分の考えたことについて話をしてこなかった人が陥りやすい状態な気がしますね。自分一人の世界においては完全な論理を構築できますからね。正に詰将棋のように。自分の思考の風通しが悪くなっている感じですね。ぬかみそも時々かき混ぜる必要がある。はじめ.icon 勝ちたいという欲求
ディベートと議論の違い。ディベートでは「勝ちたいという欲求」が推奨され、議論では「勝ちたいという欲求」は不純なものとなる。
詰将棋をやっているのに将棋をやっていると錯覚する。
将棋は盤面を共有しているが、詰将棋ではそうではない。お互いに同じ詰め将棋をやっているわけではない。しかし同じ詰め将棋をやっていると想定してしまう。
駒の配置という問題。
思考が詰将棋になるのは多かれ少なかれ免れることはできない。あとは程度差の問題で。
議論の目的は相手をねじ伏せることではなく、相手と協力しながら新たな知の地平を切り開くことにあるのではないか。
相手の思考をいい意味で利用して、自分一人では辿りつけない地点に行くことを考えるべきではないのか。
ベクトルを相手にダイレクトに向けるのではなく、その一歩先辺りに向けるべきではないのか。
武道でいう「居着く」という問題が起こっていると考えられる。
相手の論への悪しき執着。
見るべきは相手の論ではなく、議論の題材だろう。
「遠山の見」「遠山の目付」