「感想の感想」が齎す無限の精神疲弊
感想がほしい。とにかく感想がほしい。表現者はいつでもそう思っている。 しかしながら、このような欲求をこじらせると精神が疲弊していく。
感想を求める
自らの表現に感想がほしい、あるいはもう少しゆるく、反応が欲しいと思った時、どのような方策が考えられるだろうか。
まず、素直にお願いすることが考えられる。「感想ください!!」というやつだ。これは直球な分、受け手に通りやすいが、反面、「感想の純度」のようなものは落ちるように思う。なまじ受け手との交流があると、これは「要請への対応」へ変わり、「表現への感想」とは異なる文脈が発生する。
では単純に欲求だけを書いてみよう。「感想欲しいな~(チラッチラッ)」である。迂遠な分、要請力は低いが、「感想を尻込みしている人」への後押しにはなる。ただし、これは間接的……“欲しい”という欲求から察して“感想を送る”という行動に移してくれ、という文脈である。受け手が不愉快になる可能性が高い。どのぐらい不愉快かというと、家人からの「机の上汚いんだけど」とか「洗い物溜まってるよ」という報告ぐらい不愉快だ。
より要請が弱まる方法として、「感想歓迎」「感想がもらえると嬉しいです」といった、控えめかつ、“それによって何が起きるか”というのを具体的にした文言をおいておくというのがある。これは問題を生じさせないが、感想が爆発的に増えるということも恐らくない。
こう考えると、感想を貰う、というのは案外難しいように思う。しかし、感想が1つ以上あるのならば、それ以降の感想を増やす……つまり、リピーターを増やすことは出来そうだ、と考えている。
正の強化因子を与える
感想が貰いづらい一つの要因に、“感想”という行動自体には、何らメリットがないということが挙げられる。
感想を送ったことで何か得られるわけでもなく、送らなかったからといって罰されるわけでもない。
学習理論でいうと、正の強化因子も負の強化因子もないということだ。だから、皆、どうしても感情が高ぶったようなとき――感想をまとめないと平静が保てないとき――ぐらいしか、自然な反応は返せない。
この辺から本題だ。感想を継続して貰うには、「感想を送ればいいことがある」と相手に学習させる必要があると思う。
これが表題にある、「感想の感想」だ。
例えば、感想を送ってきた人に、わざとらしく喜んでみる。あるいは、感想文の細やかな掬い方に触れてみる。もっと単純にすると、お礼を言うというのもそうだ。
感想を送ってくれた人には返信をする。いつ誰が決めたのか、皆同じ答えになったのかはわからないが、これは慣習化している。
一見すると、感想を貰った側も、送られた側も、“うれしいこと”があるわけだから、win-winなんじゃないか、と思う。
けれど、これは疲弊を生むのではないかと僕は思う。
「感想の感想」の繰り返し
最初のうちはいい。感想を送ってくれるということそれ自体が嬉しいし、喜びも素直に表現出来るだろう。
しかし、時間が経ってくると、“感想に必ず感想を返す”というのが、しんどくなる時期がくるんじゃないだろうか。
技法としてこれを取り入れる以上、避けられない事態だと思う。人は貪欲な生き物だ。少しずつ喜びは薄れ、またレパートリーも少なくなっていく。最初は心から喜んで、文面と心とのギャップはなかったはずなのに、今ではギャップがある。演じて、騙して、それほど喜んではないけど、“感想を送っても喜んでもらえない”と思われるのが嫌で、喜ぶフリをする。
これが繰り返されると、どんどんと疲弊が積もっていく。
しかも、これは平等ではない。というのも、表現者はすでに“表現”という形で外部に発信している。やり取りをツリーにすると、「表現→感想→感想の感想」となるわけで、表現者側は一回分やり取りが多いのだ。
「感想の感想」に、感想が返ってくることはない。あったとしても、やはり向こう側もやりにくそうな感じがする。
加えて、元が表現への感想である以上、それを求めるなら、「感想の感想の感想」の感想を書かなくてはいけないのではないか、という衝動にすら駆られてしまう。
こうなるともう、破滅は目に見えている。
終わり時のわからない感想返し
互いに表現者であり、感想を投げ合う仲だとしよう。表現者は、感想を貰うために“貰った感想には絶対返す”というルールを設定する。
そうすると何が起きるかというと、「感想の感想の感想の……」という、無限ループが発生する。
これはぼくが“文章での直接やりとり”が苦手な理由でもある。
相手側への対応を考えると、どうやっても“終わり時”というものがない。
現実に対面であったり、リアルタイムの声であったりすれば、“席を外す”だとか、“眠る”だとかで切る理由がある。しかし、文章では、寝ても覚めても席を外しても、会話がログとして残っているのだ。返そうと思えばいつでも返せるし、続けようとするかぎり続けられてしまう。
そうすれば、本来表現に割けたであろう時間さえも、返信の文面を考えるのに使われてしまう。
本来表現者が感想を求めるのは、自身が表現するということに対して、正の強化因子が欲しいから……もっと理由があるだろうが、僕の場合はそうだ。もっとよりよく、多く表現するために、感想や反応を求めている。
ところが、感想の感想を考えることで表現する時間が無くなってしまったら、これは本末転倒である。無限ループ、というのは極端な例だとしても、数が多くなればなるほど、その負担は増え、表現の時間を圧迫し、精神を疲弊させていく。
感想には表現で返すべき
これを回避するには、「感想の感想」を廃止する他無い。やるとしても、無理のない範囲で、返したいものに返すべきだ。
それ以外の感想へは、やはり自らの表現によって返していくべきだろう。
それは更新頻度かもしれないし、あるいは取り入れることかもしれない。とにかく、表現をして、“感想のおかげでよりよくなった”とアピールするのが良い方策だと考える。
こうすれば、本末転倒にならない。表現者は表現のために時間を使える。感想を送ったものも、一応の“お返し”はもらえるのである。
表現者、あるいは何かをつくるものとしては、こういった好循環を作るということを心がけたいと思う。
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余談:一番効果的なもの
ほんとうは、「出るかどうかがランダムな正の強化因子」を設定するのが、一番回数を稼げるはずだ。
だから、感想がきたら、対応は「スルー」「いいね」「感想返し」「表現への反映」からランダムで決めるのが一番いい。
(にんげんはやっぱり、10連ガチャを引くし、パチンコ店に並ぶので)
(理論上そうなるはず……だけど、対応をランダムで決めてる表現者、“ヤバい”と思うな…………)
余談2:これだけは誤解しないでもらいたいが、ぼくは感想がほしいし、反応がほしい。無限に欲しい。(感想返しがくるかどうかは、完全に不明です 理由は前述の通りです)
学習理論云々は記憶だけで適当に書いてしまったので、もしかしたら用語とかミスってるかもしれない。