「唯識の思想」の視聴メモ
audible で流し聴くのでメモ取らないと情報量過多で意識が飛ぶ。
第一章 一人一宇宙
自己の解体問答云々
わたしが見る、わたしの腕がある、ここにわたしという語彙があるけどそれはどこにあるかという問答があった。内的世界をわたしと捉えるのであれば視界に私はいないが、世界を語彙とし、間世界観を生きる事にわたしを見出すのであれば視界にとどまらず感覚器官はわたしの息遣いを刻んでいる。感情や感覚器官に耳をそば立てず、内的世界と論理的展開に徹底するのであれば、自己の同一性が内的世界に限定されるように構想されるとは思うが。
高層ビルの立ち並ぶ都会に行けば圧倒され、デパートでさまざまな商品と出会えば欲しくなる。でもこれらは素朴に外界に実在するのではなく心の中に存在する等々、仮我の定義のあとで素朴実在論の否定があった。
素朴な実在を否定する、あるいはアプリオリな認識の形式をして世界を論理的展開する基礎を見出すために否定される外界の撹乱とは全く主体の外のものでない。都会に居て、そこを平然と歩いている都会人の目の前にも高層ビルが映っていないというのはあり得ないし、デパートの商品が提案する新しいライフスタイルというのは自己の内的世界を反省して、より多くの実存と出会うために、かつての世界を語彙としてあらたな内的世界を再組織するようなことは基本的な善であるから、そこのビルも商品も、そしてそれらとの出会いも全然自己だけのものでない。
こころの外にはモノは無い。
間世界観の相互作用に対し、世界を映じる主体の側に積極的な同一性や自律性を志向すると、外界の撹乱に意味はないし、自己が解釈するという自律性や自己に本来的な尺度が伴って初めて意味を持つという推論に発展する。一方で、社会に許容された規範的世界観やあるいはそれに対抗的に働きかける芸術運動等々は、世界を映じる主体間の相互作用が伴って初めて意味をもつ。社会的人間が画一的に育つのは、初めからそうあったわけでは決してなく、教育開発されたからである。この教育作用は教育主体が構想する世界に相応する人間観を語彙として推論される。教育作用が実在するように、私たちは、心の外に意味や実在があることを了解しているから、視界をひらくし、感情を起動しもする。世界を映じる主体の外に意味や実在を認めないのであれば、自己の世界のうちに気ままに弁証法運動で掴み取った道具で世界を描けばよい。あるいはそれができるように弁証法から対話的性格をそぎ落とし、OSを自主制作して根本的かつ論理的な判断をもとに記憶を管理したり高次の判断をする"同士"機械に判断主体としての類縁性を見出し、通信すれば良い。
唯識をインストールしたみんなは決定性オートマトンと友達なんやな。 まずは色(識?)、こころの実在をみとめる立場が唯識で、まよいの此岸からさとりの彼岸にいたる過程を認識するときのよすがとして心を捉えるということをした。
成唯識論で唯識が完成したっぽい。
毎朝の起床という行動に際して生じるビッグバン、人人唯識。
個人主義の現代には適合的な思想ではなかろうか。
量子論によって記述される世界と粒子性の強調された身体的尺度を通じて見出される世界の対比で、人人唯識の具体的世界の閉鎖性を前者が暗示しているようなことを言ってる。
ほえ〜。
我と自然と他者とを包括する宇宙とは何か。この4者すべて、わたしのこころに有るというのが具体的事実。エゴ、自我心があることによって他者のこころにアクセスできない。
主体は個人の中に全然閉じていない。これは唯識も認めているのか。具体的事実の描写には違和感は有るが。
主体性国家は普遍的シンボルを媒介して個人を全否定することで強大な主体感を生み出すので唯識的であるが、主体に対峙するわれわれではないものが有ることで普遍的たり得る自己矛盾が有る。これはゲシュタルトの観点より主体の部分を反省しても主体が描き出せないことより明白であって、主体が共有する間世界観の相互作用によってのみ輪郭が都度見出せるに過ぎない。その輪郭を能動的に推論できることで主体は自己統制感を養い肉体の使い方を学ぶことができる。このときにエゴは必要悪でも有るので、全否定されるべき作用では無い。悟りの根本的境位は主客未分のままで出会い、出会いその都度に一瞬で成長し死にゆく、そして種をのこすことにあるから、エゴの全否定より絶対的に媒介されるエゴの全肯定がなければならない。それをごく短期間で一生分の振幅を伴って弁証法運動するのでなければならない。
縁起の理について視覚像の受動性と映像に感情をデッサンする言葉等々
煩悩を喚起する発暴によって連鎖する煩悩連関についての言及。
感覚 思い ことば → 認識する世界
8種類の識、マナ識 阿頼耶識の2つを新たにを立てる
意識:5識とともに働いて感覚を明瞭にする、言葉を用いて概念的に思考する
マナシキ:深層に働く自我執着心、表層のこころが常にエゴで汚れる原因となる
阿頼耶識:一切を生み出す可能力を生み出した可能のこころ
デッサン、5識→心所の色付け、マナシキ→ことばでもって概念化する仕上げ、意識
↑これらの発展を媒介し生ぜしめる識、阿頼耶識
ことば以前に思いがあるのか。
憎いという判断はそれを概念化する言葉に媒介されているとか、ニュースピークを生み出しそうなこと言ってる。
憎いと思わせていただきますと断りを入れる。まぁ素直でいいけど、社会生活如何。
念→成→会。ヨーガ。お、応。
唯識思想は科学性と哲学性と宗教性を兼ね備えた云々。
実際にそれらは相互補完関係というか相互限定することで主体が事態を知るに能うので、その3面を意識するのは正しい。
第二章 心が迷う。
唯識無境 ただ唯識があって、無境とは、物自体の世界にはいかなる存在分節もない。ということ。
相ー名ー分別 名でもって相を分別するときに、相が外界に有るものとして捉えられて執着を招く。
遍計所執性 言葉でもって捉えられ執着されたもの。
感覚表象 情緒表象 言語表象
表象として言い換えることで
情報溢れる時代云々とかビジネス本的化粧が多いなぁ
相縛 死への恐怖をはじめ、情緒と言語の両の表象に心が縛り付けられるさまざまなこと。
六識の相縛が未整理のままでいると、阿頼耶識へと落ちて再認識するときにアレルギー反応のように鋭敏になる。
唯識派は阿頼耶識が麁重縛であることを拒む。
阿頼耶識縁起説 六識での現行が阿頼耶識に種子を植え付け、種子の業が相互に影響しあう「薫種」を経て、再度六識に於いて現行として芽吹く。業の連鎖を生み出す循環的な構造を阿頼耶識縁起説という。
判断力を種子化して離散的に考えることは必要なのだろうか。あるいは、刹那と書いてあるし連続性を否認しているわけでは無いのか。
第三章