「倫理学講話」について以前考えたこと
2021-10-28に書いたもの
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まず思うのは、ある価値判断が相対的か絶対的かは、その判断をした人が何をもってそう判断をしたのかによって決まるのであって、ある判断単体を取り出して客観的に決まるのではないのではないかということ(また、ウィトゲンシュタインも最初からそのつもりで書いていたのではないかということ)。 というのも、本文で絶対的な価値判断として挙げられていた(と思われる)「嘘をつくことは悪い」といった判断も以下のような状況であれば、事実の叙述に置き換え可能である(つまり、相対的な価値判断である)ように思われる。
Aは嘘をついてBを悲しませた。それを見たCがAに対して「AがBに嘘をついたことは悪い」といった場合、この判断は「AがBに嘘をついたことで、AはBを悲しませた」という事実の叙述に置き換えることが可能であろう(か?)。もちろん、例えばCが「嘘をつくことはなんであれ悪い」というような価値観の持ち主であり、それをもって「AがBに嘘をついたことは悪い」といった場合は、こちらはなんらかの事実の叙述に置き換えることができないために、絶対的な価値判断となる。
つまり同じ内容の価値判断でも判断した人(や状況)によって、相対的にも絶対的にもなりうる。
逆の場合も同様なのではないか。つまり、相対的な価値判断として挙げられていた「この男はよいピアニストである」の場合も、その判断をした人が、他のいかなる事実の叙述にも置き換えできないと思い、ただ「よいピアニストだ」と思った場合は、この判断は絶対的な価値判断になる。
そしてこの考え方は、むしろ資料の解説者が述べていた「純粋な相対性」に近いのではないか。あらかじめ基準があるわけではなく、判断した人・状況によってその都度決まるのであるから。といっても、解説者のいう「純粋な相対性」をまだ正確に理解してないのでなんとも言えないが。
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相対的・絶対的価値判断と「スルーできるかできないか」問題のつながりは次のように説明できなくもない。
相対的な価値判断は事実の叙述に置き換えられる。そして、事実の叙述はそれ自体善くも悪くもない。それ自体善くも悪くもないのであれば、義憤に駆られるといったこともない。それゆえに相対的な価値判断はスルーできる
テニスの例でいえば、Aが「Bはテニスが下手である」という価値判断を下し、それは「Bは二回に一回はサーブを外す」という事実の叙述に(Aの中では)置き換えられるとする。このようにAがBのテニスの下手さ(悪さ)を「Bは二回に一回はサーブを外す」という事実としてあくまで中立的・無機質に捉えている限り、Bがそれを改善する気がなくても、憤ったりすることはない。