「ピーマン嫌い」と信念
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※後の議論とこの画像は必ずしも結びつきません
「概念」と「信念」というのがキーワードになる
「外部的な働き」をどう位置づけるか
どうして信念が「外部的な働きかけ」によっては変わらず新しい経験によってしか変わらないか
最初のピーマン経験は身体的かつショッキングなものだっただろう 幼少時は味蕾が多く苦味を感じやすい→子どもは苦味に弱い ある時期から加齢により味蕾は減少する
「ピーマンはマズい」という信念は経験と結びついている ピーマンは「避けるべきもの」であると認定されている 「ピーマン食べる?」と言われたら、「いらない」と答える傾向を得る。
「なぜ?」と言われたら、「まずいから」と答える傾向を得る。
この傾向を持つことにより、最初のショッキングな経験の再現を回避する
かりふぁ.iconピーマンの例は具体的な経験に基づく信念形成を経たが、経験と結びついてない信念もあるよなぁ
その違いがどういう違いをもたらすのかが気になりますね久住哲.icon
「ピーマンは美味しい」という外からの主張は経験と結びついていない
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「ピーマンを食べなよ」
「なんで?」
「だって、美味しいじゃん」
「まずいよ」
「いや、美味しいよ」
「いや、まずいって。食べたことあるから分かるよ」
信念の変化にとって本質的なのは矛盾である
新しい経験が最初の信念を変えることがある
別な経験から同じ概念(ピーマン)についての再発見がなされる
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「あれ、ピーマン美味しい……!」 (出来事)
自分にとって不味いはずのものが自分にとって美味い……? (矛盾)
「たぶん舌が大人になったんだな」 (合理化)
「ピーマン」という概念について矛盾に遭い、それを解消する。
「外部的な働きかけ」は外部的であるがゆえに矛盾をもたらさないのか?
ピーマン嫌いの信念が変わらない例
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「ピーマンはまずいから嫌いだよ」
「え、ピーマン美味しいじゃない」
「よくそんなものを好んで食べるね」
「人の好みってそれぞれ違うからね」
「そうだね。まあ私はピーマン嫌いだから、私にとってピーマンは不味い」
この会話からでも矛盾は生まれる
この経験から「嫌う」の概念が変化する場合がある
元々「嫌う」は「不味い」を意味していた。
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「ピーマンが嫌いってどういうこと?」
「ピーマンが不味いってことだよ!」
この認識から見れば「ピーマンが好き」と言う人は「嘘をついている」か「変な人」だろう code:_
「あら、そう。お母さんは好きだけどね」
「ママ、やべー!!! ママの舌おかしい!!」
その後「ピーマン自体が不味いのではなく、ピーマンの味が自分に合わないのだ」と気づく。
どちらかといえば、「そういう語り方を学んだ」と言ったほうが近い
「これ」:ピーマンの味が自分(それぞれの人間)に合ったり合わなかったりすること
それは現実を正確に写した記述ではない
それは「ピーマンを食べない」という自分の判断・行為を正当化するために使われるひとつの理由である
「気づく」というよりも「合理化」と言ったほうがいい久住哲.icon 味が合う合わないという「人間の基本設定」が「人生の物語」に導入された
ピーマンはそれが好きな人にとっては美味しく、それが嫌いな人にとっては不味い。
「つまり、私の口にピーマンが合わないのだ」
そこで「嫌う」は、「自分にとって不味い」という意味を持つようになる。
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「ピーマンが嫌いってどういうこと?」
「君はピーマン好きかもしれないけど、僕の口には合わないんだよ」
同時にピーマンの概念も少し変わる
ピーマンはそれ自体で不味いのではない
それは「自分にとっては不味いが他人にとっては美味しいこともあるもの」である
「不味いものを好む人がいる」という(かつての)矛盾が解決されている
ピーマンの例の場合、信念が再接触(経験)を妨害する形になっている
「〜が嫌いだ」という信念はその「〜」への再接触の回避を促す
経験は信念にもとづいてなされるが、この信念ははじめ経験にもとづいている
「経験は信念にもとづいてなされる」とは
例:ピーマンはまずい(信念)から、ピーマンを食べない(行為≒経験)
「信念は経験にもとづいている」とは
例:ピーマンがまずいものだという信念は元々ショッキングな経験に由来する
あらゆる信念が同じ概念についての反復的経験を妨害するとはかぎらない