「お師匠」という呼び方
シーサーの資格⑧。いい回だ。「お師匠」と呼ぶのに躊躇やためらい、恥ずかしさがあってはいけないんだよな。はちわれはどうしてもそこが出てしまう。何回も読んでいれば慣れるかもしれないけど。シーサーにとってはごく自然だったのだろう。シーサーってマイペースに人に配慮していく子なんだよね。一見、反対のことに思えるんだけど、こういうことはよくある話で。このマイペースさが「お師匠」という呼び方を可能にしたのだろう。はちわれもマイペースなんだけど、シーサーのマイペースさとちょっと違う。シーサーの方がはちわれよりもより盲目的になれる。悪いことではないんだけど。
「お師匠」という呼び方は、日本の伝統的な師弟制度を思わせる古風な呼び方であり、魅力を感じさせる呼称である。だから、はちわれはこの呼称を使いたくなるのだが、この呼び方は現代においてはあまり一般的ではないため、使う際に唐突感が生じ、「変に思われるんじゃないか」という考えがよぎるため気軽には使いにくい。だからはちわれも躊躇してしまう。
似ている言葉で「先生」という呼称を考えてみると対比としてわかりやすい。「先生」はより一般的な言葉で、初対面の人であってもそのような関係性があれば、気軽に使える言葉である。先生は幅広い言葉で、初対面の人に対して機械的に使うこともできるし、長年の親しみを込めた私情を伴って使うこともできる。漱石の『こころ』における「先生」の使い方もより親しみを持った使い方がされている。「お師匠」は前者の側面、つまり初対面の人に対して機械的に使うような使用法はできない。
「お師匠」が気軽に使えるケースというのは、コミュニティで既に使われている場合である。例えば、兄弟子が使っている、弟子の集団内でそれが使われているような場合である。ただこの場合も「先生」と事情は同じで、その社会で使われているかどうかというのが気軽さと関係している。その集団を大きく取るか小さく取るかのちがいだけである。ただこの社会というのが結局目の前の他者に収斂されてくるのである。最終的にはこの目の前の他者がどう思うか、もしくはどう思うと自分が想定するか、はちわれならば、目の前のラッコ先生が「お師匠」という呼び方をどう感じるか、それをはちわれがどう想定するかということに収斂されてくる。ラッコ先生がどう感じるかはわからないけれども、そこへの自分の想定がつまずけば、言葉を発することはできない。
はちわれは結局ここにつまずいたが、シーサーはここを気軽に飛び越える力を持っている。これが上記の盲目さとも関係している。そもそも人が人に向けて言葉を発する時、この盲目さがほんのわずかでも含まれている。逆に言えば、この盲目さがゼロの場合、人は人に向けて言葉を発することができなくなるだろう。他者から来る何か、もしくは他者から来るように見える何か、これをシャットすることが出来なければ人は人に向けて言葉を発することが出来なくなる。寡黙な人というのはここに対する感受性が強い人なのかもしれない。一方、このシャットが強すぎれば、空気が読めない、さらに強ければ妄想的な世界にいってしまう、もしくはそうみなされる可能性も出てくる。