Scrapboxについての再発見(2023/3/26)
Scrapboxについての再発見(2023/3/26)
久住哲.icon
今日自分にとっては驚きの発見をした
この当たり前のことの有用さが、自分にはよく分かっていなかった。 やろうとしたことはあったが、他人に読ませる文章を書くのが苦手な自分からすれば、この格率は苦手なことを命じる指示だった。
この発見(発見というか原点)の前段階として「導線」という概念があった。Scrapboxのリンクは導線であり、使いやすく整備された道のようなものだ、といった考え方だ。 ほとんど同時に、「見つかったんだからいいじゃねえかよ」という概念もあった。私のScrapbox利用の主な目的は、昔書いたり見たりした情報への再アクセスだとある時気づいた。その概念はこの気づきと関係している。 「書くべきこと」という言葉の曖昧さ。これが今回の発見で重要な意味を持っている。
私は「その場で書けること」を書いていた
私は時に何も自分の言葉を書かなかった
code:例
『野生の思考』
みたいなページを作っていた
「いいじゃんそれで」と思う人も多いと思う。ただ、私は自分の躓きポイントをこういうページに見出した。
書かれるものによって、そして書き手(即ち私)によって、書くべきことは異なる
書くべきことを書けばいいと思えた具体的なきっかけは、自分の個人プロジェクトで「アクトランド」のページがすぐに見つからなかったことだった。
自分のなかでアクトランドは「サイエンマニアで知った施設」であり、そのサイエンマニアは「核物理学の回」だった。その回の話では「ぶらんこ」の話が印象的だった。
しかし、アクトランドのページには、「サイエンマニア」の字も「核物理学」の字も「ぶらんこ」の字もなかった。
私はそのページを#高知県というハッシュタグから見つけた。私の頭の片隅に、その施設が四国にあったという記憶があったので、四国の県をひとつひとつ検索して、高知県を開いたときに関連ページにそれがあった。
どうして私は自分にとって重要な情報を書かなかったんだろう?それは、客観的に見ると、アクトランドはサイエンマニアとも核物理学とも関係がないからだ。
しかし、私にとってのアクトランドは、サイエンマニアの核物理学の回のぶらんこの話と切っても切り離せないものだ。
私は〈アクトランドのページに書いていいこと〉だけを書いていたようだ。自分の個人プロジェクトだというのに。
「書いていいこと」を書くんじゃない。「書くべきこと」を書くんだ。そして、私が私のノートに書くべきことは、私しか知らないし、私にしか関係がない。
しかし、それは私の恣意で決まるのではない。私はたしかに、サイエンマニアのそのエピソードをきっかけとしてそのページを作った。これは私が決めたことではない。私の外からやって来たことだ。
言い換えると、自分本位かつ丁寧。自分の関心を中心としながらも、「書かなくても関心は頭や心に有るからわざわざ書かなくていいや」と思わず、ページを作るごとに手入れすること。 もうひとつ全然違うきっかけがある。それはアープラノート上で行われていたハイコンテクストとローコンテクストの話だ。(つづく) あらすじ
共同プロジェクトではなく個人プロジェクトをモデルにする
例えば「紅茶に浸したマドレーヌの味覚から幼少の時からの記憶が蘇ったこと」を、「マドレーヌのページに書いてしまう」ようなことをScrapboxで行っているcFQ2f7LRuLYP.icon マドレーヌとページそのものの内容は何ら関係がない
しかし、自分の中で契機になったこと、媒介になっていることは事実 持論?個人的な思い出?
読み返してみるとよく分からない久住哲.icon
この感覚をしばらく試してみることになりそうだ