Daseinを「現存在」と訳さないための方法
from 翻訳における語の選択
久住哲.icon
ハイデガーを訳すとき、Daseinという語を「生きる」と訳したらぶっ飛ばされるだろう。……しかし、誰がぶっ飛ばしてくるというのか?……そもそも、あるドイツ語に対応するひとつの日本語を定めて、ドイツ語の文章にその語が出てきたら、定めていた日本語に置き換えることが正しい翻訳なのだろうか。もしかしたら、それが正しい翻訳というものなのかもしれない。……しかし、それは何のために正しいのか? 『存在と時間』を読んだことがあれば、ハイデガーの「現存在」という言葉が人間を指すということは知っているだろう。だが、「人間を指す」とはどういう意味か。「『存在と時間』を読むときに、『現存在』という見慣れない言葉が出てきたら、心のなかでそれを『人間』という言葉に置き換えましょう。あるいは『個人』でもいいですよ。そうすれば理解しやすくなるはずです」というような意味だろうか。だが、重要なのは、人間の話がされるところでDaseinという言葉が使われている理由だ。『存在と時間』より後の、『根拠の本質について』では、das menschlichen Daseinという表現が出てくる。直訳すれば「人間的現存在」にでもなろうか。もし、「現存在」という語を「人間」という語で置き換える習慣がある人がこの言葉を見たら、「人間的人間」と変換してしまうかもしれない。そうすれば、笑われるだろう。私は、この表現が使われる共通の文脈があるのではないかと考えた。そして、その文脈というのは、人間がこの世を生きることだと思った。
まず、ハイデガーは、人間の本質を語るとき、「生きる leben」という動詞は絶対に使わない。彼にとってこの言葉は「体験する erleben」と結びついている。たぶん、この「体験」というのは、彼から見れば浅薄なものなのだろう。例えば、内容に無関心なまま『純粋理性批判』の文字をすべて辿った人が「俺はあの『純粋理性批判』を読んだことがあるんだぜ」と言うときの、その「〜ことがある」で言われているのが、「体験」に近い気がする。もしそうでなくても、彼は、〈人間が存在すること〉と〈生物が存在すること〉とを、同じ存在することだとは見なさない。lebenは、むしろ生物のためにとっておかれる。人間のためにとっておかれる動詞は、existierenだ。
ドンピシャの箇所を見つけた
現-存在は「生きる Leben」という意味での「人間的現存在」ではない。(ハイデガー『性起』第216節)
しかし、日本語とドイツ語は違う。日本語の「生きる」は、単なる生命活動の維持だけを意味するのではない。もう少しでリメイク版がリリースされる黒澤明監督の『生きる』を観てもそれが分かるだろう。たしかに、あの映画の起承転結の承の部分においては、生物学的現実が前面に出る。生命活動維持の可否が問題になる。だが、それをきっかけとして主人公に起こることは、生き方の変更である。彼は転職するわけではない。彼の周りのメンバー構成が変わるわけでもない。「彼が変わる」のだ。この「彼の変化」は、彼の物事全般に対するあり方の変化、態度の変化である。すなわち、「彼=1人の個人」は、存在者全般に対しての彼の関係の仕方で、ある。一言で言えば、生き方が変わる。だから私は、1人の人間を指すDaseinの訳語として「生きる」を提案した。もちろん、単に語を置き換えるという意味ではない。ドイツ語でDaseinと言われるところを日本語で考えるときには、「生きる」という言葉を手がかりにすればよいのではないかという提案である。たしかに、DaseinをLebenだと見なすのは間違いだ。だが、ハイデガーの想定するlebenと日本語の「生きる」は別である。
私は常々、「現存在」という言葉が嫌いだった。意味が分からないから。「現に存在する ist …… da」と訳されるときはなおさら嫌いだった。ふつう「現に」というのは「実際に」という表現と置き換えておかしくないような言い回しだが、daは「実際に」という意味ではない。むしろ、ハイデガーは全てが「実際性 Wirklichkeit」に還元されていくような客観主義的な考え方に対して、人間の存在のための名称のひとつとしてSeinkönnenを言わなかったか?もちろん、「現」という漢字から「現れる」という言葉を連想することはできるし、「現に」を「事実的に faltisch」へと変換することもできる。
そんな-seinが大事かね。そんな毎回「現存在」と訳出しなければならないか。もちろん、『存在と時間』ではずっとDaseinの話がされるのだから、それを訳出するのは当たり前のことだ。訳さないと脱落になってしまうだろう。しかし、日本語は主語を言葉にしないまま話したりする。うまく工夫すれば、ハイデガーの言わんとするところを漏らさず、かつ、毎回毎回「現存在」という語を使わずに済むのではないか。