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ハックルベリー・フィンを読み始める。そういえば、日本にとってのゴーゴリやトウェインはいたのだろうか。
コミュニティに長くいるとチームを組む機会が増え、誰それと誰それの相性が〜的な話が耳に入ってくるようになる。それを聞かせてくる人の目的は興味の薄い私にはわからないけど。
そういえば今日は帰りに寄ったスーパーでショートケーキを買ったのだ。すっかり忘れていた。世の中はクリスマスバージョンになってた。休日で気持ちが大きくなっていた私もホイホイ買ってしまったが(2Pカット)。
(景気的に)戻らないあの頃のケーキを思い出したりもして。あの頃を良かったと思えるくらい今も悪くないなら、数年後の私に振り返られることになる今だってありがたいことになっているだろう。
文の読みには高低で二つの次元があるらしい。話す内容で同じように見分けられるのかな、世の中には低に擬態した高だっているだろうけど、どこかでわかる人にはわかる尻尾が出ているなら面白い。
書類を出す用があり、見た人に字が上手いと言われたが、書いている本人は(字を書かないと下手になるな)と痛感していた。一瞬ヘンテコな世界だった。
本屋でチーヴァー短編集を購入。私が好きそうな気がする。ちくま文庫の棚にはときどき驚きがある。
先生のような本が増えている。学校で勉強をしなかった空白を埋めようとしているのか。
なんだかんだ、人に薦められた本は買って読んでしまう方かもしれない。
数年前、あーぷら内で複数人に教えてもらった本たちも一度は読んでいたり読んでる途中だったり。
今日食べたカップ麺は大ハズレだったな。
寝る前に一本読みたかったけど、眠いので断念。
アサヒさんの曲を聴いてからエレクトロニックの曲もいいなと思うようになってる。その中でもスローテンポで、曲としてよくわからないもの(前衛的と言い換えられるのかも)がいい、アンビエントというジャンルか。作業用にもなりそう。
夜中の静かさにもアンビエントがある。換気の音だったり、体内から聞こえる動作音だったり
なんとなく聞いていたガブリエル・フォーレのメロディでボヴァリー夫人を思い出した。接点がないもの同士で思い出すのがちょっと変だと思う。
日付で区切らず、行を詰めて書くとページの圧が上がる。
寒くて眠い日が続く。明日天気が良かったら少し外を歩きたいな。
ゲームの高難易度モードに参加を表明したものの、難しい役割を果たせるか自信がなくて気持ち悪い。
何とか目標はクリアした!よかった〜🥳 (そして次回の予定が立った)
車の中で歌ったり聞いたりした歌謡曲の心地よさについて考えると、しっかりした母音とそのためのメロディが関係しているのかなと思う。深い感情表現に必要な気もする。
『高校生のための文章読本』、少しずつ読んでいる。アンソロジー形式が楽しいのは私の手に取らない、知らない作家の世界が開かれるからだ。気になったものから読む、順番を変える楽しみもある。この本は編集者からの教科書的な問いが入るので懐かしんだりもできる。あの頃は強制的に読まされていたのでろくに想像もしなかったが、今は著者と編集者の思惑を考える楽しさもある。一本が数ページに収まっているのも読む気にさせてくれる。日本人作家の感覚にどうしても馴染みを感じる、離れようと気をつけていることなのにどうしたって心地良いので面白くない。西洋かぶれできてないのでもっと海外のものに手を出そうと思う。(そんな目標はもともとない)
昨日たくさん食べたので今日は控えめだった。たくさん遊んだ。
ガンダムの曲が流れてきたことがきっかけとなり、好きな作品と印象的なシーンを色々語った。富野氏の描く女性は印象的だ。アニメと侮るなかれだ、私にとってミハル・ラトキエはダンサー・イン・ザ・ダーク並に忘れられない光景になっている。いまさらだけど、カツ・レツ・キッカとミハルの弟たちは対照的だな。
外食で野菜をたくさん食べてきた、生野菜と温野菜両方。炭水化物が少ないので糖が抑えられ、お腹が繊維の消化を頑張っているようで全然眠くならない。噛みながら口から鼻を通ってきたのか生野菜の香りを強く感じた。グロテスクかもしれないが、こういう癒しもあるのかも。
X(旧Twitter)を少し見たが、以前のような長時間見たくなる楽しさ…魅力がずいぶんなくなった。国内外で政治が悪くなったせいか。イライラ、ぷんぷんな欲求不満みがすごい。
半身不随になって人が変わったように怒りっぽくなった祖父を思い出してしまった、穏やかな頃の祖父も覚えているのに。我ながらひどい。ただ、片方だけでなくどちらの祖父も思い出せたことにはほっこり。それに会社のパワハラフキハラ上司を最初に思い出さなくてよかったし。
寒くて仕方ないのに、夜中はアイスが魅力的に感じる。
なんだかなー、と思うことがいっぱい。ま、寝たら忘れる。明日も頑張ろ。
100年前と今の日本人は全然違うように思う、それでも同じ日本人と名乗っている。今から100年後に日本人がいるかはわからないが、もう全く別の民族と言えるのではないかと想像する。
ある場に何かしらの心地よさが漂っている。それを外側から見るのが好きな場合は多い。これは鑑賞(時に体験しながらの)だと思う。逆に好きな場を見つけたらとにかく飛び込んでいくタイプがいる。多分だけど後者は主人公の気質が強い。観るより味わっているのかもしれない。好きなものとその扱いについて話している時も、鑑賞者タイプに対して疑いなく飛び込むようはたらきかける。この先ずっと繰り返すであろう平行線の会話を不思議に思う。そして高校時の友人が恋しくなる、互いの考えの違いやそれらのなぜについてよく話したものだ。(今それについて話す機会がないということはない、単に彼女の言葉や思考が恋しいのかも)
飛び込む行為は信条や志からの行為ではない、漫画アニメの主人公のように何かを為さねばならぬという強迫じみたものを感じなくもない、こういうのはいつ植えられたものなんだろうな。たとえ志がなくても憧れの誰かの生き方を追いかけてそう振る舞っているのかもしれない。生まれた時から主人公は主人公ではないし、見えない誰かの力には動かされている。
今日は作業していたために一杯のコーヒーを飲むペースがとても遅く、ガラスのマグカップにたくさん跡がついた。コーヒーのシマシマ。
書き上げた作品が著者の心を何度も癒やすことはあるのだろうか。昇華とはなんだろう、小説家の自死の多さに思う。
『高校生のための文章読本』が届く。この兄弟本も一緒に買った。分厚い、どれかの前書きに“アンソロジーのように楽しめる”とあった。楽しみ。嬉しい悲鳴になるが、文庫で2センチ近くあると開きにくい。
アメリカという国はイギリスはもちろんのこと、西欧がやってこなかったことを経てきてるので、米文学も“面白そう”みしかないだろう。また、初読でグロッキーだったサリンジャーとかももう一度読んでみるかと思う。
読んで苦手な作家が結構いるのかもしれない。ジッドの『地の糧』もそう。でももう一度読んで何が苦手なのか考えてみていいかもしれない。
今日買った本。カミュの『ペスト』と夏目漱石の『吾輩は猫である』。家には『草枕』があるけどいつ買ったのか覚えてなくて、気づいたらあることが面白い。
なぜ有名人に良い人格や良い言葉遣いを望んでしまうのだろう。自分の考えることながら不思議で仕方ない。
『人文的、あまりに人文的──同人版#003』がKindle unlimitedにあったので少し読んだ。哲劇のお二人が同人誌を作っているのは知っていたが、即売会でしか手に入らないと思いこんでいた。
名うての方々が「残りの人生であと1冊しか哲学書を読めないとしたら?」に答える。
選んだ一冊とその理由が短い文ながら読み応えがある(不勉強のためほとんど知らない人たち)。アンケートに答える中で開示される回答者の考え、過去の記憶、迷いなどのリアクション、それを読んで湧く面白さに既視感を感じて、思いついたのはラジオのお便りのコーナーだ。ただし、さらに進んでいる。
“あと一冊”という縛りが回答者に人生設計を促したり、見直させる。その中には未来についてでない潔いものもある。
ある動画の会話の流れでものともの、ひととひとの比較が必要になるケースと頻度が引っかかる。〝話を聞くのが好き〟の見えない前提(程度と話題の制限)。そりゃあ旅先でする会話なんかは基本的にいい話しか聞かないもの。
ソフトサラダ。煎餅の中の煎餅。夜の似合う白い肌。
見ていて辛いという明らかでない感じ。なにもの?どんな偏見?
洋ゲーはドンパチして何百人という人間を見飽きるほど撃ち殺していく。その手の流れはうんざりするのだけど、自衛のために他人と戦うのはむしろ自然のことで、日本で対立を恐れながら生きてる自分こそ異様な気がするな、今は。
昔より共感力が衰えている。それを埋め合わせするつもりなのか、なるべく易しい読み方の本を注文した。
SFにも色々あるんだなぁ。
SFに触れてこなかったから苦手意識のあるジャンルだ。でも『華氏451』のような機械が少ないものなら平気。
苦手と思いつつ読んでみたいSF小説は増えつつある。肌に合わないのは知らなすぎるからかもしれない。SFの生まれた背景など知ったらいいのかも。
ポストモダン小説も同じ状況にある。高度なジャンルのようなので理解できるとは思えないけど、知っておくといい予習が足りてない。