論文読書会(2021/9/30)
「伝統的フロイト派心理学、行動主義心理学、認知心理学におけるスピリチュアリティの役割」【7頁】
「トランスパーソナル」という言葉を使う理由
なるべく普遍的でありたいという欲求。学問の世界に位置づけたい。
「スピリチュアル」を使うと心霊やオカルトの方にもっていかれる。
「スピリチュアリティ」とは何か
狭義の意味は、心霊やオカルト。
広義の意味は、神や魂とのつながりや自然と一体化する感覚など。トランスパーソナルは広義の意味を取る。
(狭義)の方にも対応している。
トランスパーソナル心理学誕生の背景
人間の全体性を復権する動き。人間の心身の健康にスピリチュアリティは欠かせないのではないか。既存の心理療法は個人内にとどまっているという懸念。
参照:WHOも健康の定義に近年スピリチュアリティを含めている。
水準の異なる3つの問い
心理学は科学か
心理療法は科学か
精神分析は科学か
心理療法は科学たりうるか
科学をどう定義するかによる
狭義の科学、広義の科学
狭義の科学は、物理学を理想とする。再現性や客観性を重視する。
心理療法は物理学のようには、再現性や客観性を徹底できない。主観性や共同主観を大事にする。
科学たりうるかは別として、科学であろうとする努力は意味がある。
広義の科学:理論を形成する。できうる範囲で実験やデータをとる。自己批判の目は常に持つ。
心理療法の場合は、教育制度の確立等も重要。
ただ心理療法はいつも真理とのズレがありうる。
科学は、真理の探究と説得力という二つの側面を持つ。
心理学の場合は、真理の探究より、説得力という面において制度化されている。
精神分析は疑似科学か
この問いはややこしすぎる。「疑似科学」という言葉を定義するのがまた難しいので。
それなら「精神分析は科学的か」という方がまだよい。
精神分析が疑似科学ならば、ユングもロジャーズもフランクルも認知療法も、つまり行動療法以外の内観を対象とする全ての心理療法を疑似科学と呼ばねばなるまい。
そして行動療法は疑似科学から免れているのかということは、また別の意味で確証があるわけではない。
それではなぜ精神分析だけが疑似科学と呼ばれるのか。
歴史的な事実として目立った論争があったからである。(ポパーなど)
そのような事実を通じて、精神分析という主語に、疑似科学が述語づけられることとなった。
つまり「精神分析は疑似科学か」というこのありふれた問いは、本質的な問いではなく、歴史的慣習的な問いなのである。
かといって精神分析が疑似科学性を免れているというわけではない。
今後の心理学への提言
確率論的に考えるべきである。
つまり、なるべく全く同じ実験(再現実験、追試)を百回、千回のレベルで行う。
ここで得られる結論は、「○○とは○○である」という断定調の結論ではなく、「○○という状況の下では、60%程度の確率で、○○という結果が生じる」このような結論付けがよいのではないか。
「心理学の再現性の危機」について
これも数回の実験のレベルで再現性があるないと言っているのではないか。
背景にある物理学という理想
疑似科学とは何か
非科学との違いは何か
騙すことや利益を得ることなどの意図の介在は必要条件か
心理学は科学たりうるか
物理学とは違うあり方を模索していってもよいのではないか
内からの批判と外からの批判 有効な批判と不毛な批判
精神分析は科学(狭義)か
現代の精神分析界隈の人で、「精神分析が科学的だ」と思ってやっている人はほぼいないと思う
精神分析界隈の人にとって「精神分析は科学的かどうか」という問いにはあまり興味がない
なので「精神分析は科学的ではない」という批判に対して、「精神分析は科学だ」という反論をしようと思っていない。
そこを争点にしようと思っていない。
むしろそれを肯定しても全く構わない。まぁそうだろうなという感じ。
どこの点に科学でアプローチしていくかという問題がある。概念に対して実証が必要だという論は不毛。そもそもどういう方法を想定しているのかよくわからない。
心理療法の後、質問紙調査をするなどのアプローチはあり。ただこの場合もどの時期に、調査を実行するのか。どこまで継続していくのかという問題は残る。もちろん質問紙そのものの有効性があるかというのはまた別の問題である。
それでは精神分析の価値がどこにあるのかと言えば、深い人間洞察にある。
ただ洞察・理解があるということが、治療に必ずしも結びついているわけではないという所に心理療法特有の問題がある。
たとえば、近所の聞き上手なおばさんみたいな人が心理療法と同等もしくはそれ以上の役割を果たしているということは有り得る。西洋医学の場合ならば、こういうことは有り得ない。
近所の聞き上手なおばさんは偶然性であり、誰もがそこにアプローチできる手段が確保されているわけではなく、運の問題になってしまう。ここの手段を公平に確保しようとする試みが心理療法であるともいえる。
ここが教育や制度の問題になってくる。近所の聞き上手なおばさんが持っている要素を普遍化して、それを訓練することで一定の人員の量と質を保障するのが、教育であり制度である。
「再現性」という言葉は多義的であり、現象の再現性というだけではなく、このようなセラピストの量や質の保障なども別の面での再現性である。
それでは優秀なセラピストと近所の聞き上手なおばさんとの違いはないのか。本質的にはないと思う。もちろん細かいことをいえば、優秀なセラピストは場数を踏んでいるので、危機的な事態にも動揺しないなど、細かい違いはたくさんある。
ただ専門のセラピストが持っている知識というのが治療には有効には働くのであるが、その有効性というのが事実を描写しているという意味での有効性ではないということである。
事実を知っているから、そこに働きかけるということで、治療が可能になるというモデルが心理療法では成り立たない。
理論の持つ価値というのは別の所にある。
心理療法というのは価値のある偉大な茶番なのである。
「茶番」というのはどういう意味かというと、理論と現実が噛みあっていない可能性があるということである。そしてこれは永遠に確かめるすべがない。
心理療法と鍼灸の類似性
どちらもある程度の効果がある
しかしそれがよって立つ理論が必ずしも現実と噛みあっていない可能性があるということ
鍼灸の場合、経絡の存在がその治療理論の根底にあるのだが、経絡の存在は客観的に確かめられてはいない
そうなると鍼灸がこれこれこういう理由で治癒が起こったという理由付けが、的外れのものである可能性が常にある。
しかし、その理論があることが鍼灸の発展を促し、実際に楽になっている人たちがいるという有用性があるのである。
このような事情は、ほぼそのまま心理療法にも当てはまる。
ここで言う「有用性」は鍼灸治療の有用性というのみならず、理論が鍼灸治療に果たしている有用性があるということである。たとえそれが現実を捉えていなかったとしてもである。
心理療法の理論
真の無いところには、偽はない。真説のないところには、仮説もない。
心理療法の理論や概念を「仮説」と呼びたくなる誘惑がある。しかし、そこでは検証可能性がゼロなのである。しかも永遠にゼロなのである。つまり、「仮説」とすら呼べないのである。そもそも真偽が問えない場なのである。
現実を捉えていない可能性のある理論の意味は何か
専門家としての自負、現象に向き合う態度などに関わる(これは古代のシャーマンや祈祷師などと同じ構造)
実践における自分の立ち位置を確保できる(これは精神科医の斎藤環さんも言っている)
教育、制度、体系化などに役立つ。これは学問の世界に居続けるための条件でもある。