読んだもの日記(イ)2026年7月
07/20
暑い日だった。
少し体調を崩した。
運動をして身体を整えた。
将来に対する漠然とした不安。矛盾と孤独を感じる。
人は独りで生まれ、独りで生きていく。やがて独りで旅立つことになるが、そのときまで目を見開いていたい。
父のことを考えていた。母のことも。これからのことも。
落ち着かず、シャワーを何度も浴びる。
なにかを書くと落ち着く。たとえそれが単なるメモにすぎないとしても。
どれだけ正気でいられるかわからないが、なるべく生き延びよう。
田舎の風景は、どうしようもなく美しい。
クラシック・ギターを試し弾きした。
自分はしばらく独身でいるのだろうか。謎と期待。
なんだか変な奴だが、いなくなってみると寂しい、みたいな存在でありたい。
07/19
運動をした。
07/18
日記を欠かしてしまっていた。
ミステリアスにいこう。
07/17
07/16
太鼓を叩き、ギターを弾いた。
音楽をつづけていきたい。
07/15
文豪は、きっと、あらゆるものからヒントを得ているのだろう。ありとあらゆる文化風俗から。そうして、世界と一体になってしまうのかもしれない。わけのわからない塊のような言葉を原稿用紙に書きつけるのだろう。
むし暑い一日であった。
小説(ノベル)のノヴェライズをしてほしいものだ。小説は述べるものだ。
この身の全ての才能を笑い(お笑い)にそそぎこんだら、いったいどんな笑いが生みだせるというのか。
クーラーさまさまだ。
「人類の深層意識には膨大な量の情報が蓄積されており、それを保存し喚起し表現するのは言語である」という説がありえるだろう。一方で「言語というのは音声と記号の体系であり、表面的な意味しかない。人間は表層のコミュニケーションが全てであり、意識もない」という説もありえる。これはカントやムージルのようなアンチノミーあるいは可能性感覚によるエッセイズムだが、いまだに決着はつかない議論であろう。
労働に喜びを。日々に力を。パワー!
三島由紀夫は、「読む(読まれる)スピードと書かれている展開のスピードが同じ小説」を夢想していた。起こることとそれを描写することが等しい小説。精確な時計のような小説。
長引く病気だと診断された場合、まず思うのは家族のことだろう。迷惑をかけないか、これからやっていけるか。だが家族が病の原因だ、あるいは病そのものなのだという意見もある。この辺りは人によってはナンセンスな問い、愛なき問いであるし、人によっては際どい問い、あるいは問うことが危険な問い、問うことを差し控えるべき問いだろう。
今の文学には自分でフレーズを生み出す能力が欠乏している。太宰治のフレーズに比べたら、時間の経過に耐えられないような紋切型のフレーズばかりだ。ということも言えれば、ステレオタイプの大量生産によるポストモダン的な文学の豊饒な過剰。みたいなことも言える。ことほどさように、文学は宙づりになっており、若干、停滞していよう。
ユウチウブで芥川賞・直木賞の発表番組を見ている。どうなってしまうのだろうか。
いちど、いままでの文学を総点検して、どこがどうなっているのか、どうして作品として成立しているのか、などをみてみるのもいいかもしれない。世界文学協議会、始動。
ニュースは大切だ。世人は多少ミーハーでなくてはならない。そうでなくては、はじまらない。
千の道があり、千の孤独があり、千の激情がある。
小説にはだいたい会話があるので、その会話を書くことでいろいろなキャラクターになることができ、それによって情緒豊かになれるだろう。
書いた本人より、小説そのものが力をもてばいいことだろう。異端の小説を書くことは、それだけで世界に対して挑戦している。アリョー!
そういえば忘れていたが、昔ブックオフで『1Q84』を初めて立ち読みしたとき、序盤の記述に違和感を感じて読むのをやめたのだった。そのときはいまと政治観や歴史観がちがった……それに若かった。そのブックオフもつぶれてしまった……懐かしい。そういうこともあった。
はた目にはどうでもいいことだが、自分には欠落があるとおもう。欠落があるからこそ欠落をうめようとしてなにかを作り出すし、欠落をあらわしたものしか作り出せない。月は欠けているところが昏く、深い。
死者を弔うには、どうするのがもっともふさわしいことだろうか。歩いて、立ち止まって、模索している。
いっとき幸せだといつかしっぺ返し(?)を食らうんではないかというオブセッションがある。が、いまは幸せか不幸せかわからないので自問自答の諸行無常である。人間は言葉の生物である。あなかしこ。
ときに不快で、ときに不気味な世の中で、生まれ落ちて、いかに誠実に実感を書いていくかという意識がつねにある。
07/14
公共の場としてのアープラ。とくに何事もないので、しばらく身をひそめてみるのもよさそうだ。アープラの管理運営は公人としての在り方を模索してきたし、みんなそれぞれがそれを見事にこなしてきたと思う。今後はそれを発展させて考えていくことが重要だろう。などともっともらしいことを書いてみる。
そろそろ久しぶりにみんなでアープラについてのぶっちゃけトークをしてみるのもいいかもしれない。そうするとメンバーの意見や不満や気づきがわかっていいだろう。見えないガス抜きにもなる。アープラは長距離走、長期戦だ。最近かかわっていなかったので、時間間隔やアープラとの距離感をつかみにくくなっているが、どうなるのだろう。
アープラは実力派がそろっているので世界征服もできるだろう。メンバーも4000人を超えて、ますます力を増幅させていっている。まるで千葉のヤンキーのようだ。どこからともなくぞろぞろ集まって、勢力を他県にまで拡大していくのだ。いけ! アープラ! 鳴らせ! 集合知のクラクション!
骨丸会長は黒魔術にも精通しているので、アープラという「場」からは宗教的なパワーも生成されている。電脳空間のひとつの理想郷としてアープラは存在するのだ。
アープラは内戦もなく、内紛もなく、血なまぐさい革命もなく、ここまで力を躍進させてきた。すばらしいレガシーだ。これを明日に引き継げるようにがんばろう。
精神病院でも、アープラのことを忘れたことはなかった。アープラのことを考えながら建物の中をぐるぐると回っていた。そうしたら痩せてスリムになった。
よく、仲間に食べ物をわけてもらう。さっきペヤングのかやくをくれた。もつべきものは仲間だ。
わが人生も、そろそろ若い人たちのやることを見守る段階にきているのだろう。もとから得意だったので大喜びだ。……はやく老年になりたいものだ。
『1Q84』は悲しい話だ。それにしても、平成の不気味なエクリチュールを英訳したものを読んで、英語圏の人々はどう思ったのだろうか。翻訳言語全盛期としての平成。
「陰」の気を「陽」の気に換えなくてはならない。それが道家のつとめ。
変わりつつある世の中で、動き続ける者たちがいた。それがなんのためだか、もはや、誰も知らない。
イタロー劇場、スタート!……とりあえず言ってみただけとです。
誰でも秘密を持っている。しかしそれぞれの秘密は細かく長いエピソードなので永遠に明らかにされることはない。だから秘密という言葉で一括りにされている。
人に屈辱の気分を味あわせてしまうと、いずれこちらも味あわされることになってしまう。
狂気のエクリチュールというのは校正することで是正できる。
人間に本心なんてものはなく、言葉のテクと行動の技術でなんとかうまくやっていくだけだ。
家族には突貫力がある。なんでも溶かして穴を開けてしまうのだ。
部分にかかずらっていると一冊も読めない。一冊も読めないと部分も読めない。
別にそれが合理的でも何でもないのに行うことに関しては自信過剰、だれでもえてしてそういうものだ。矛盾しつつ、矛盾を感じてもいる。しかも、その落とし前はいつまでたっても払う機会がやってはこない。
外国では戦争が行われており、その国々の首脳は興奮している。あるいは活発になっている。非常事態には賢者もそうなる。
猫と追いかけっこするときは怖がらせすぎないことが求められる。本気で追いかけて怖がらせてはかわいそうだ。こちらが追いかけられる番が来ればいいのだが。
小説を書くためには大量の語彙が必要だ。語彙で小説という建築は建てられている。
『ヴェクサシオン』が「小説家になろう」というサイトで連載終了する。ここしばらく連載していたのだ。完結すればいくらか読まれるだろう。これは20万字程度の、長編小説である。わが最高傑作にして、自信作だ。さてどう評価されるか。アチョー。
スマホの値段が上がっているらしい。ちなみに私は、安くない格安スマホを使っている。
笑いの神様に、ギャグの才能をねだる。
しばらくすると、「言葉の時代」がやってくる、と自分はみている。言葉の威力や精度が問題となり、ものをいう時代が。そのために今は本をたくさん読んでいる。やがて言葉をあやつる職業につき、ウハウハの生活をするのだ。ハハハハハーッ!
そういえば最近、巨大なリサイクル・ショップに行ったのだが、無国籍な感じがした。
『Underworld』を読んでいる。まさに散文。村上春樹よりジャンクな感じはしない。むしろ整った印象。
07/13
東京に行った。にぎやかな都市。何でもある都市。東京から帰ると、強烈な孤独を感じる。東京もまた孤独な場所なのに。
どんよりした天気。
どんな人でも表に現われているのは本当の声ではないかもしれない。しかしその表と裏のキワを歩いていくのが人間世というものだ。
人に怒ったり悲しんだりはたまにするが、気持ち悪いとは思わない。人間はどちらかというとかわいいものだ。
人は慰め合って生きる生き物だ。といって、慣れ合ってばかりでも生きていられないのだけれど。
誰かがこの日記を読んでいればなあ。と独りごちる。
メインキャラクターでなくとも、印象的なサブキャラクターになれれば、本望である。
グアアアアア
変な話、誰か独りで世の中が回っているわけではない。むしろ誰かが休むことで代わりの人が担ってどこかの歯車が一回転することも珍しくない。世界のネジはひとつではない。
人生、歯を食いしばって生きなければいけないときもある、というが、私はいまがそのときかもしれないが、そんなに苦しくはない。今後の人生で、これ以上のなにがありえようか。林の中の象のようにゆきたい。
老人ホームの母に会いに行ってくれる母の知り合いを探している。訪問者が来るたびに母は元気に、記憶も鮮明になっていく。強く、賢い人だ。
アレクセイ・カラマーゾフと少年たちをふと思い出した。
こういう静謐な日々は、人生でそうないので、いままでの道のりを丁寧に点検してゆく。
とりあえずなんか放っておくか、という感覚でこの日記を書いている。
07/12
にゃんにゃかにゃんにゃん。
農作業をした。たいへんだった。イモをいくつも植えた。
明日もがんばろう。
タオのままに……。
めずらしく日中に少し寝た。
気力・体力が充実したら、なにか一生をかけられる仕事をみつけたいものだ。
フランシス・ベイコンの絵は、ホラーゲームなどでも模倣されそうな恐ろしさがあるが、その構成的な作風が独自の美をうみだしているのである。
ラカンによればジョイスはシゾフレニーを小説を書くことによって食い止めたとされているが、ジョイスほど言葉を巧みに操った作家も珍しく、シゾフレニーほど一般的に思考がこんがらがる病気もない。ジョイスは文章を書くことで混沌を形にしたのだろうか。それとも、崩壊しつつある秩序を混沌から救ったのだろうか。
AIとやりとりしていたら、ジョイス → ピンチョン → デリーロ → ボラーニョを読んでいくといいだろうと言われた。もちろんこれらの作家は会話の中で出した名前なので、そうなるのは当然といえば当然だが、現代の要約不可能な巨大な現実を描く作家として、代表的な人たちなわけだ。
この世にほしい小説……それは誰か他の人が書いていいのだが、まだ存在していない小説……を求めて、つねに思考している。既存の言葉からうまれる言葉の群れであることは、間違いないと思うのだが。
こうして言葉を羅列していると、のちのちなにかしらのヒントにはなる。
執筆を停滞させるものはなんだろう。中断だろう。中断を生みだすのはなんだろう。執筆以外のことだろう。
何を書かないかから、何を書くかへ。何を除去するかから、何を追加するかへ。
日本の現代小説はまだ抽象的なものをあつかうことに習熟していないとおもう。対して現代の海外の文学は具体から抽出した観念をモチーフとからめて描写することを身に着けているとおもう。これはヨーロッパやアメリカ大陸で顕著だ。おそらくカフカやベケットなどの形而上小説の伝統・影響があるのだろう。もっとも、翻訳文化によってこの垣根はなくなっており、世界文学においては地域性は関係なくなってきてもいる。ナショナルなものがなくなるほど、文学として強力になってきているのだ。それは人間が根無し草になってきた証しでもある。しかしこれは仕方ないことでもあって、文学の歴史をみると、超越性や普遍性をもっている文学が強い影響をもつ。……ひょっとしたら、今の時代、21世紀特有の文学の読み方が、そのような歴史を綴っているだけかもしれないが。捏造とまではいわないが、文学の恣意的な読み方と書き方。それがその時代に支配的な言説の源泉となる。
最近は、日本文学の新たな胎動を、しばしば感じる。文芸誌をたどってみると、それは以前から用意された流れなのかもしれない。日本文学の豊かな水脈は、いまも確かに息づいているのだ。文学を単なるコンテンツとしてみるよりも、文化の抑揚としてみたほうがわかりやすく、愉しい。
人からポール・ド・マンをおすすめされた。デリダの影響下にある一派の人らしい。原文は英語なので、それで読んでもいいかもしれないと勧められた。脱構築的な批評というのは、現代の主流になっている方法だそうで、ぜひとも確認したいものである。おそらく細かな巧妙な引用を駆使してテクストの矛盾とポストモダン性を衝くのだろう。一個の批評として愉しいし、戯れとしておもしろい。いずれデリダその人の文章も読みたいものだ。日本語か英語か、手に入りやすいヴァージョンで読むだろう。
AIなどの発達により、手作りの文章の整形が容易になると、世の中にはきれいな文章だけが存在するようになるだろう。それはどのような意味をもつのだろう。知情意が十分に共有できる文章ばかりがある状況は、喜ばしいといえるかもしれない。だが、同時に、さまざまなテクスト、異常さや奇怪さや冗長さをはらむテクストを含む、インターネット上の言語空間の一種の終わりを暗示してもいるのかもしれない。それはつまり豊饒さの終末だ。
次の小説の構想が脳裏に浮かんだ。探偵小説で、長編になりそうだ。
あなたがひとたび小説を書いてしまえば、もう勝ちだ。世間の評価などあてにならない。とにかく、あなたは小説を書いたのだ。
07/11
電車に乗るのは刺激になる。
全体小説を読んでいきたい。世界を描きつくす小説。
小説というのは成り立つために客観性が必要だ。
イモは茎からも生えてくる。
語りの重要性。自分以外のだれが自分の語りを語ることができるか。
なんという日々の居心地の良さ。これでは満足するあまり創作も満足に進まない。
三島由紀夫の作品世界には、「人間の普通」があるとおもう。
カネがモノを言って、権力の代替物に使われる時代はいつ終わるのだろうか。人間がその習性の奴隷に甘んじていなければならないのは、いつまでだろうか。興味深いことである。
三島由紀夫『につぽん製』読了。小説を通しで読了した久々の機会な気がする。ラストまで読むと、それまでの展開が走馬灯のように蘇ってくる不思議な作品。久々に通読した小説かもしれません。私にとってはわりとなじみ深い作家、三島由紀夫の作品。パリ帰りの男女が、戦後の経済成長中の日本を舞台に、相次ぐ試練におそわれ、恋愛の機微をかいまみせます。一人はデザイナー、一人は柔道家。意外な取り合わせかもしれませんが、トレンディードラマとかでもあるかもしれない。三島が芸術的な小説で描く、背徳・反逆・退廃・虚無・耽美な世界とはちがい、オシャレでエスプリの効いた筆致で、しいて毒といえば幾人かの登場人物たちのスノッブさでしょうか。ラストまで読むと、まるでフランス映画のような、もしくはそのパロディーとしての日本映画のような味わいを得られます。少しずつ読んだのですが、愉しい読書となりました。
ひろさちやに、『狂いのすすめ』という新書の本があった。若いとき読んだ。いったん狂気に陥るということも、生きるためにはいいだろう。むしろ狂気をふり絞らないと、戻ってきたとき不満足感が残る。澱の様に底に溜まった狂気は出し切るべきだ。
時間をかけた処女作というのはおもしろい存在だと思う。そこにはつくり手のそれまで得てきたものがそそぎこまれている。
創作指南の書を読むのと、そこに書かれている通りに創作するのとはべつのことだ。それとも、読むと自然と創作の何たるかがわかるのだろうか。このへんは、微妙な部分だと思う。
正常なエクリチュールにおいては補足は読みの安定をもたらすが、狂気のエクリチュールにおいてはカオスを増させる。
正常の深み。正気の深み。論理の深み。そういったものに戻っていこう。
現在のグループホームでの生活は、埴谷雄高にとっての独房生活に喩えることができるかもしれない。だとしたら、こつこつ語学をやったり哲学書や文学書を読んだりすることがふさわしいはずだ。そうやっていこう。何をいったい、パソコンをいじっているのか!? とはいえ、懲役ではないから、自律した生活、外部との接点もなくてはならないのが悲しいところだ。
以前家族で見ていたポワロのドラマはおもしろかった。推理と人間ドラマと歴史。アガサ・クリスティーは大文豪だ。
若いうちは早く偉大な業績をあげようと、いきり立ってやっきになってしまう。努力病。これは誰しもあるものだ。あるていど年をかさねれば、それもなくなり、学ぶことは易しい。
健康的な生活をしている。それはいいが、健康的に暮らしていると、用事が生まれ、忙しくなる。よって、静養ができない。結果、生活はつづく。
07/10
楽しく労働した。伸びしろがある。
小説を書きたいが、どのように書こうか。
毎日書くことが重要だという。毎日読むことも重要だ。
アメリカ人になってみたい。なってみるだけ。銃社会は怖いが。
ペシミストの思想というものに興味をもつ。シオラン、ショーペンハウアー。
『Underworld』を読みはじめる。やたらと長い文章がある。
母語じゃない言語を読むと解釈にハルシネーションが起こって、なんのためかわからないエクリチュールが出現する。この読んだ感触をノートに書きつらねていくと、もうひとつの作品が生まれる。
人と右翼の話をした。右翼とは何者で、何をしていて、ふだんどこにいるのだろうなどなど。謎が多い。
辻原登『卍どもえ』を読んでいくか考える。てごわそうだ。辻原登の小説は、アヤしい。
人間の無意識は言葉で構成されているのだろうか。だとすれば、言葉を学んでいくことは無意識を拡張していくことなのだろうか。無意識を拡張していくことには、いったいなんの意味がありうるのか。
つぎにブームが来る「感覚」はなんだろうか。案外「INAKA」とかだろうか。「マイルドヤンキー」が流行ったからもうしばらくないのか。
ストンプとかはきょうび流行らないのか。中坊のころには流行っていた。日常生活から突然音が飛び出すかんじ、あれがいいんだよね。
明かりを少なくして、音を消して、内省的になるのもいい。
今月下旬には『2666』英訳版が来るはずだ。
資本主義を謳歌している。資本主義下の自由を。
新しい道具は日夜大量に発明されているはずだが、それを後世への遺産として残すためにはどうすればいいのか。
さいきんはなにかと力の抜き方を覚えてきた。力を入れるべき範囲さえわかれば、どこまでいれなくていいのかわかる。
へんな日本語で体系を構築していきたい。人呼ばずして、ダベるの塔。
ある言葉遊びや冗談をなぜこれがおもしろいのかと分析していくと、だんだん自分でもつくれるようになる。言葉で行うものである以上、小説と同じである。ところで、言葉というのは「こと」であり「もの」であり、「行動」であり「存在」である。
びぇおなうぇり、ぽぎゃもてぴみゅら、ごぢゅえくぇそ――イタロー、辞世の句であった(嘘)。
考えながらでなくとも読むことはできる。考えながら読みすぎると余計なものまで引っ張ってきてしまうこともある。無心で読んで初めて了解することもある。考えすぎたかと思いきや、やっときっかけをつかめただけの時もある。
なんだかどんどん言葉が湧いて出てくる気がする。それにしても言葉は左脳と右脳どっちから出ているのか。
接続詞は大事だ。
ノベルゲームを作ってみたい。
砂のようなエクリチュール。一粒ひとつぶは独立しているが、全体としてひとつの波をなす。
「白ける」とはどういう状態なのだろう。場を白けさせた「そのもの」は、何をもってそんな強力な沈黙の力を生みだしたのか。
同じひとつの文章を、なんどもなんども書き直すことが重要だ。
去年あたりから、睡眠導入剤を導入して、徹夜をしないようにしたら、頭がつねにハッキリするようになった。これだけ日記をつづけて書きつづけられるのも、その結果だろう。なんという健康な毎日!
このごろガムを噛んでない。とくに理由はないけれども。ガムを噛むのも噛まないのも理由はない。
「正しい日本語」「正しくない日本語」という分けかたもあるが、「読める日本語」「読めない日本語」という分けかたもあり、自分はこちらを興味深く思っている。「正しい使い方ではないが読める日本語」というのもあるからだ。
未完成なものでも、鑑賞者が完成させてくれる。
仕事に疲れてうつらうつらしている人が休めたり愉しめたりするものをつくりたい。
芸術とはなんだろう。美を感じるパターン。一瞬を引き伸ばす技術。
『Underworld』をぱらぱら読んでいる。自分の英語の能力だと、まだこの文体がどのような効果をもっているか実感できない。前評判や使われている言葉から類推するしかない。文学は体験であり、実感が大切な芸術だ。とすると日常使っている言葉かそれに準ずる言葉でなければ愉しみにくいジャンルなのかもしれない。一方で、日常の言葉を疑いつつ信じつつ読むことでなにか独特のイマージュ、あるいは特筆すべき幻想を受け取るか思い浮かべることができるかもしれない。その場合は、読む言葉との距離が問題となってくるのであって、生活言語である必要はなくなってくる。ある言語の能力はある文章から印象を読みとるためのツールであって、それ以上ではない。重要なのは文章に(時に意図せず)載せてあるポエジーだかイマージュだかエクリチュールだかとにかくそういう神秘的なもので、神秘的なものであるがゆえに、べつにそれを躍起になって特定する必要はない。知識や意味とは異なるところに、文学の運ぶべき要素はある。
この日記から、本の読みかたを書いた部分だけぬきだして並べれば、断章的エッセイになるかもしれない。ひとつのことを、いくつもの書き方で表現しているわけだ。
日本語と外国語を完全に翻訳可能だとする主張は、方言についてどう説明するのだろうか。
この日記を、書けるあいだはとにかく書くようにして、ここから文章をつまみあげていくのはいいかもしれない。いいだろう。いいはずだ。考えてみれば、自分はお金のためではないものの生活のために書いているかもしれない。書いていれば、落ち着く。書いていれば、小銭になることもある。書いていれば、あとで役に立つ。書いていれば、日々が愉しい。
自分は小説を書くとき、なるべく完全なかたちの文章を書くように意識していたかもしれない。いまはそういう意識から遠のいているが。完全を意識するといって、それによって完全な文章が書けるわけでもない。ただ効果的にせよ無駄にせよ力は入る。うんとこしょ、うんとこさ、と。小説はそういう土方作業だと思っていたフシがある。もちろん、それはある意味でそうだ。ある意味ではそうではない。そんな感じ。
紙だったらこんな書けるか、という量を、デジタルなので書いている。書けている。
自分に対してにせよ他人に対してにせよ、厳しくあるなら、成長できるだけの厳しさだけで十分だ。
07/09
本を読まなければ。
アープラノートをみかえしていると、思索のあとを書き残しているページがたくさんみつかる。後世のためにもいいことだとおもった。人がどのようにものごとをみつめ、考えているかわかる。
シーシュポスの神話ではないけれども、どこかに爪痕を残しておかないとあとで基準を忘れたときに最初からやりなおすことになり困ってしまう。とここまで書いてこれが微妙に間違った詭弁だということに気がついた。
青年期は自我が成熟する仕上げの時期だから、己を守るためにも学ぶことが重要だと思う。といっている自分はよく学んでいたかというとはなはだアヤしい。
木村敏『分裂病と他者』。まことに読みやすい文章だが、ハイデガー『存在と時間』の読み直しとデリダの読書が必要だと感じられた。
自分の狂気の声を「信じない」ことで正気を保つということ。
ハイデガーVS埴谷雄高とすべきか、ハイデガー&埴谷雄高とすべきか。
誰でも、人に言えない大変な義務や悩みがある。それはなんとか小康を保っていても、流れの小さな積み重ねによって、やがて山を動かす濁流となる。老子風に言ってみた。
アープラの2026年7月号に提出した『猫の影』は、これでもかと要素をつぎ込んだ渾身の作なのでぜひご一読あそばせ!
両親にはずいぶんと迷惑と苦労をかけてしまった。まとめて返すだけの機会もなかったように思う。せめて二人以上に生きて、世の中に幸福を還元するのみだ。
自分の半生を私小説にすれば、ちょっとおもしろいとおもう。それだけは自身(自信)がある。
笑って暮らせる社会がいちばんいい。そのためには、1・苦しみを減らす。2・楽しいことを増やす。3・みんなを芸人にする。
父は幸せだったと思う。父には負けたくない。父より長生きして、めちゃんこいい人生にしよう。
初恋の人には告白せずに終わった。いまでもたまに思い出す。幸せに暮らしているだろうか。とか。その恋をいまでもひきずっているのかもしれない。ちゃんちゃん。
07/08
仕事中、ふと、英検を受けてみるのはどうかとおもいついた。なにか特定の目標があると、張り合いがでるだろう。
黙々と作業をした。
むし暑くなってきた。
世界文学を読んでいるうちに、世界はおもしろいとわかってきた。だから言語(外国語)をまなびはじめた。そして、言語もおもしろいということがわかってきた。
「制限された中での究極の自由」という考え方が好きだ。精神は究極に自由な状態にあって、状況は極度に制限されているとする。するとその世界は自由な精神で満たされ、すばらしいことになる。てな具合。
「このままだと日本はなくなる」というような議論があるが、平安時代は鎌倉時代へと移行してなくなったし江戸時代は明治時代となってなくなった。問題はどのようになくなるかだ。
古い自分たちの演奏を聴いている。
三島由紀夫の『小説読本』。三島は「努力をする天才」なので、「努力しない凡才」は読んでいて頭が下がる思いだ。
少しパコ・デ・ルシアの映画をみながらギターを適当に弾いた。
07/07
『Underworld』がアイルランドからきた。読むのが愉しみだ。
実家のものの処分整理をしてもらっている。古いアルバムや写真がでてきて懐かしい。
YouTubeで母校の後輩たちの恩師の指揮による演奏を聴く。技術と解釈がすさまじい。
まったくいままでなかったものを描く小説というのはほぼなくて(例外は『死靈』。ただし虚体を導入することで小説そのものも変質してしまった)、すでにあるものを寄せ集め、組み合わせて描いたのが小説である。
木村敏『分裂病と他者』をひもとく。なかなか込み入った、難解な本である。
父の日記を実家から持ってくる。おそらく10代の若き日の日記であって、青春が伝わってくる。形見として大事にしていこう。
帝王切開で生まれ、統合失調症を投薬で寛解させ、脳のバイパス手術で無事生きながらえている私は、現代ならではの生き物だろう。昔だったら死んだり廃人になっていたのであろう。
バッカイというギリシャ悲劇がある。神ディオニュソスと王が争う物語である。これはおそろしい話で、熱狂と陶酔によって人間はいかに獣に先祖返りするのか、それを覗きみた者はいかなる報いを受けるのかを見事に描いている。
『Underworld』は、どうやら簡単な単語で書かれているようだ。夏目漱石の『こころ』などがそうだが、簡単な単語を使って平明な文章をつくり、それによっていかに陰影のある内容をつたえることができるかは、文芸につねに課せられているテーマのひとつだ。
ある文章を徹底的に推敲していくと、いつのまにか一周回ってまた推敲すべき文章ができあがってしまう。
哲学書・思想書の英語版が欲しい。たとえばドゥルーズ=ガタリなど。
定期的な労働ではない資本の拡張方法はないものか。個人的にはそこらへんを探っていきたい。
お金の話は限界があるがゆえに、いったんそこを把握するとわかりやすい。たいした発明である。
一人称単数で没入できる話を書けば、ヴァーチャル・リアリティーのような効果をつくりだせるのではないか。
極度に冷めつつも、何もわかっていない、何も明らかにはなっていないのだ、という姿勢で本を読んでいくということ。世界の襞を丁寧にわけていくように哲学書や思想書にふれるということ。
人は、正気と狂気のあいだを行ったり来たりする。その周期がわかってくると、また一歩理解にくわわる。そしてまたわからなくなる。一歩前進、一歩後退。
狂気のエクリチュールというものがわかってきた。知らぬまに、この日記にも紛れ込ましているかとおもう。
なんにせよ、狂気というものはある、とわかってきたのが近現代ではないだろうか。しかし狂気の説明をしたってしかたない、というのも一理ある。狂気をよくみてみると興味深い、というのも一理ある。なんにせよ狂気は考えることと紙一重のところにある……と思えば狂気から遠ざかることができるし、……むずかしい。
社会はパズルのようなものだから、うまくいかないところがあった場合は、組み替えると通りがよくなることもある。
いまの自分がいるのもさまざまな人の縁であり、ありがたいことである。南無南無。
よくノートパソコンのカメラを起動させっぱなしにして、電力を多めに消費してしまう。
いかに理解されやすい文章を作り出すか試行錯誤するのは、意味のあることだとおもう。
手グセだけで出力すると、おもしろい。
100年後からすると、現代はなんと未発達な時代か、ということになるだろう。現代のわれわれからはどこがどう未熟と指摘されるのか予想できないほど。
なぜある特定の言語に依存するのか。それは、依存したほうがその言語を真似しやすいからである。母のふるまい、母語。
ある種の作家はそうだとおもうが、遠大な計画、巨大な陰謀、法外な妄想……といったものを自分の内に秘めておくのではなく、それそのものを作品にしてしまうこと、途方もないコンセプト自体を一冊の本にしてしまうこと、こういったパンフレット的な小説を書くことは一種の「創造のカタルシス」を生みだすだろう。書いてて独特の気持ちのよさがあるというわけだ。
英語は20世紀~21世紀でもっとも狂気に近づき触れることができる言語だと決め打ちして、難儀だが半ばしかたなしに学ぶことにしている。
英文の本の中身をランダムに読む。他の部分を読む。これをくりかえしていると被る単語がある。そこでつながりが生まれ、やがて意味が生まれる。学生のころには出来なかった、思いつかなかった学習方法だ。
たとえばネジをはじめて目にした人も時代の進歩を感じたはずだし、歴史を感じる心というのはいつまでもかわらないものだともおもわれる。
いつまでもマイナー感覚をもった、マイナーな存在でありたい。
日本は物的資源が少ないともいえるし、多いともいえる。各時代に様々なものが考案され、生みだされたが、多くは消えてなくなり、支持をえたものが歴史にのこったのではないか。そうおもえば日本においてオリジナリティーとは何ぞやという話になってくる。記録しきれないほどのものが記録されず消えていったのだから、このわれわれのものも記録されなくたってしかたがない。
意図的に意味にねじれをもたせる。へたくそにやる。案外いちばん大事でいちばん残るのはそういうことではないか。
いろいろな「文体」を並べて眺めてみるのもおもしろい。文体陳列。
日本の文学のほうが美しい、アメリカの文学のほうが美しい、と競っても、答えは出ない。すると、日本語とアメリカ英語で文のつくりかたが根本的にちがうのかもしれない、たとえ相互に翻訳可能だとしても、という言語学的な問題提起がでてくる。美的直観から言語的思索へ。
数年前の自分の動画をみていると、自分が言ったかさだかではない内容だ。つまり忘れている。ド忘れしている。これは未来の自分にむけて渡したヴィデオ・レターかもしれない。
07/06
アイデンティティが若造とおじさんのあいだをたゆたっている。
打楽器は、誰でも音が出るし、実際そっくりの音とフレーズが練習すれば出せるのだが、そこにはのっぴきならない身体性があって、その身体性を叩くことで取り戻さなきゃならない。
ほとんどバンドを組んだことがないが、こういうバンドは案外多いのだろうか、核となる音楽性を持っているリーダーがいて、他のメンバーはその人の言うとおりにプレイするのみ、というバンド。なにが起こっているか、なにをつくっているかはリーダーしかわからない。
ばるさんの「Aviatic EvolutionⅡ」を聴いていて、突然ドローン・ミュージックのかっこよさ、聴き方がわかったきがした。そしてこの曲はカッコいいのだ。
かつての仲間で音楽をつづけている者にあったら、「おまえはいままで何をしてきたんだ……」と言われるだろう。ウデがなまりすぎている、というより磨かなすぎている。それにしても昔の仲間に長いことあっていないのだった。コロナ禍があったというのもある。
去年、体験ではなくて感覚で「どん底」「不運の最底辺」「人生の分岐点の変異」というものに襲われて、たっぷり経験したのだが、意外な事にそれで連想するのは「死」ではなかった。案外生命力にはあふれていた。ただしとんでもなく厄かった。おそらく三十も半ばを過ぎて、生命力が絶頂に達したのだろう。そのことで、易経にあるとおり下り坂への準備がはじまったのだろう……自分の場合、一気にきたので、びっくり仰天真っ逆さまというかんじがしたが。……とにかく大きな事故にならなくてよかった。
キーング・クリムゾーン!
「無根」ではなく、「無底」へ。根無し草ではなく、根そのものへ。大地の底、底の底をさぐれ。
田辺詩を聴いている。天才だと思う。
自分は貧乏だが物持ちではあるので大事にしていきたい。主に書籍だが……。
この日記にはなんでも書いていきたい。
令和は平成のくりかえしなのか、昭和の再来なのか。天皇中心のくくりかたという観点もある。
コルトレーンのアセンションを聴いて、上昇しようとしている。
『2666』を気が向けば読んでいる。飽きているが読んでいる。素晴らしき惰性。
いまさら何かに対して鬼か般若になりたいものだ。以前は小説だった。これを完結させることだけが生きがい、死にがいだった。
イエスは言った。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと、思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」
聖書、とくに新約聖書は、不思議な書物だ。キリストの打ち出したアイデアには度肝を抜かれてしまう。それに、彼の溌溂とした立ち振る舞いに魅了される。しかもその神の子の神聖さでもって人々に同じ愛を説くのだ。人々はみな平等に愛し合うべきだ、という心は、キリストの心がまた他者の心に分有されているという宣言でもあるだろう。おもしろいのは、このプロジェクトが永い時をかけて現在も実行中ということだ。人類を全て救済するために動き続ける(働き続ける)ことは、神の国が実現するか、キリスト教がなくなってしまうかしないかぎり止まらないだろう。人間が長い世代をかけて実行していくことができる理念を提示する、ひとつの哲学だ。
当然のことだが、ニーチェもキリスト教思想家の一員である。キリスト教世界の大きな流れをふまえてこの世に考えを残した。だがニーチェから(西洋の)思想は大きく枝分かれしたとおもう。だからニーチェをふまえたキリスト教の思想というのもありえるし、ニーチェをふまえた別種の新しい思想というのもありえる。たとえばツァラトゥストラの後を継ぐような。
07/05
誰かが飯を食べている文章を読むと、何か食べたくなってくる。
休みと風邪を謳歌している。
カントの物自体というものは、プラトンのイデアのキラキラキラーッとしたものではなくて、観念の説明書きみたいな無味乾燥なものではないかとおもっているが、どうだろうか。
失われた終着駅をコンセプトにした動画を流している。
『ゆきゆきて神軍』をみている。はく力がある。昭和の力。
ムージルについての動画がYouTubeで増えていた。すばらしい。
村上春樹の本の英訳を読んでいけば、非常に手ごろな英語で書いてあるので、英語の勉強になるだろう。ただ内容がアダルティーだったりするので、学生の人には向かないのかもしれない。
太鼓を叩くのも思考のひとつの形だとおもっている。アフリカでは太鼓で会話するという。人間はいろいろな方法で考える。
独学で英語を身に着け、独特の言語、いわば日本のクレオールみたいな言葉を話せるようになり、世界語をゆたかにしていきたい。
ふかえりと戦争。ふかえりは大きな力をもつ巫女だが、敗戦によって国家宗教的なものが否定されたあとの人間なので、半ば力を失わされている。それは、多くの人との強いつながりによって生まれるべきものだ。しかし彼女の運命的なシャーマンの力は強く、物語中でもすでにカリスマ的な人気を得つつある。
数年前に比べて食事の量がかなり減った生活をしているが、だいぶ痩せ、驚くほど健康になっている。粗食、少食が身体にはいいのかもしれない。
07/04
その日ぐらしのような生活をしているが、資本を貯めて安定さしてもいいかもしれない。どうして貯めよう。あるていどの資産があれば、あとは勝手に増えていくものらしい。
ギターとカホンをいじった。ボンゴがほしい。
自動販売機で何か買うのが娯楽になっている。何か飲むというのは、それだけで気分が変わる、不思議な体験だ。
『文學界』2011年4月号には、高橋源一郎と糸井重里の対談がのっており、おもしろい。
なんとなく『文藝』2025年秋号を選び、しばらく読んでいた。戦争の傷跡特集。テレビでは藝大の学生が町おこしの作品をつくっていた。鹿沼のシウマイ。両方おもしろい。
『暁の寺』には三島由紀夫の芸術論とおぼしき一節があって、芸術は夕焼けである、大きな生贄の火であると書かれている。とても三島らしい見方である。自分は芸術に関して少し似ていて少しちがった考えを持っていて、子供のころの夕方の切ないような懐かしいような澄んだ感覚が思い出せるような芸術を享受したいし、作り出したいとおもう。マグリットの芸術はまさにそれで、ああいう感覚を想起させるものが好きだ。
子供は自由にのびのびと育つのがいいので、子供のいる家庭はゆとりがもてるようになるといい。
『2666』はまとまりきれていないという感想はけっこうあるようだ。B級・C級映画やポルノ、サブカルチャーの強い影響がある作品だとおもう。ボラーニョの作品はどれもその気配がある。この前読んだ短編もそうだった。
Twitterで、『ツイン・ピークス』と村上春樹の関係を探っている人がいた。無意識を探るクリエイターたちなので、深い関係があるのだろう。ボラーニョもそこにあげられるだろう。
静かな文体でリミナルな街の様子を書いたらいい小説になるのだろうか。なりそうだ。
自分の書く小説はカネにならなくていいので、表現になってほしい。なりたい。
英文を読む習慣は確実に奥深いところで無意識の血肉になり、生活や創作に独特の影響を与えている。
アープラノートのあるページのリンク先が「迷惑広告」urlに変わっていた。自分が貼り付けたものなので消しておいた。気を付けないと、迷惑広告に侵食されているときがあるなあ……。
ミニマルな暮らしに憧れている人は、こういう方法がある。いったん、資産を全て書籍に換えてしまうことだ。そして好きなだけ本を読む。そのあいだ労働はしない。そのうち貯えがなくなったら、大半の本を売り、生活保護に移行する。そしてミニマルな暮らしを始めるのだ。ようは茫洋とした時間をゆたかにすごす手だてを創造することができれば、無為な生活は可能だ。
宇宙についてのテレビ番組をみた。宇宙の秘密を探る行為は、ほとんど「人間の捉え方・考え方の探求」への旅と近づく。宇宙をみつめるとき、われわれの心は外をみているのか、内をみているのか。
長く同じ時を過ごした人ほど、別れはつらい。だから人と関わることを避ける人もいるだろう。だがその人さえも人と同じ世界に住んでいる。
大貧乏人か、大富豪でいたい。それがいちばん落ち着く。
物語の中で、損な役回りや、片隅に追いやられたり、忘れられたキャラクターに焦点をあて、救い出したり、愛でたりする営みは、おそらく昔からあるのだろう。もしかすると物語の原点なのかもしれない。
ルイ・ウルフソンは耳をふさいで母の言葉をシャットアウトしたらしいが、自分にもそんな経験がある。隣室から漏れ聞こえる両親の会話を、耳に指を出し入れしてもみ消した。そうしていると寝ることもできない。かといって寝ようと指を抜くと会話が聴こえてくる。いうなればダブルバインドという状態だろうか。
イワン・カラマーゾフの反逆は破滅への序曲だが、過剰なエネルギーに満ちている。これは伝染性のウイルスみたいなもので、青春に効くのだ。
風邪っぽい感覚がするようになってきてしまった。同居人が風邪気味だったのでうつったのかもしれない。
令和は、平成のくりかえしになるかもしれない。と、ふとおもった。
このごろ料理をしていない。こんなに料理をしなくて大丈夫なのかとおもう。
『純粋理性批判』を読んでいる。過剰なものは足りなく見える、というようなことを道家はいう。カントの本には物語が希薄だが、それは同時に数限りない物語を孕んでいるということでもある。
山口晃の絵は、たとえば『2666』の群像劇の面と印象が似ている。その点ではポストモダンなのだろうか。
富永太郎・中原中也・小林秀雄の本を読んでいる。みんな大したものだ。彼らは友達だった。
「夢の女」という題名の詩を思いついた。メモだけしておく。
インターネットは不特定多数にとどくので、観客を気にせず創作する自由というのは重要な気がする。
07/03
人から教えてもらって知ったが、芥川賞と直木賞が両賞とも該当なしだったそうだ。ニュースによれば、売り上げが10%ほど落ちるらしい。コメンテーターは、これで良かったのだと言っていた。
まったりと過ごしている。
言葉を使うとき、使い手がどうもともと考えているかは関係なく、どうやって伝えようと言葉をこねくり回すかが問題となる。
なぜ近現代の小説は語り手をなくそうと努力しているのだろう。無駄にもおもえる。たとえば、人が何気なく部屋のなかの家具を説明するのがもっとも目立たない語りだろう。過度に客観的にするとかえって臭みが出てしまう。言葉があるていどの歴史性を帯びているからだ。
インドカレーを食べにいった。辛くてうまい。ナンをお代わりした。店内にインドの写真が飾ってあってインドに思いを馳せた。
ヴィスィエール・ジョルジュ『クラウンフランス語単語仏検4級5級対応』を買った。フランス語関連の書籍は初めてだ。これで発音と綴りの関係を覚えたい。
「季刊アープラ2026年10月号」のテーマ候補は「殻・自虐・伝奇・漂流」で、いまアンケートをやっている。
「あとから考えてみると、なんでもないこと」というのは、「その途中で介入してくる人物A」のことを加味していないので、なんともいえないともいえる。なんでもないことに誰かが入ってきて予想のつかない展開をみせた……という未来、つまり現在もありえたということ。
読むということは、思考を真似するということだ。
語義を学ぶための理想論としては、ある特定の語彙を知りたいとき、何かしらの本の見出しにその語彙が使われているだろうから、その項目を読めばいい、ということになる。ただし分野が狭まってくるとそれだけ参照しなければならない本も狭まってくる。ひろく知りたいときは辞書を引けばいい。ある分野に特化した辞書もある。ちなみに詩や小説など文学はこの境界の領域を探る、提案する、書き乱すので読むときは注意が必要だ。
読み方の欠点は書き方の欠点と奇妙に関係するかもしれない。たとえば私は専門的な話を書くときこれを読む人はわかるだろうとおもってついわかりにくく書いてしまうのだが、さて読むこととなると、専門的な本を読んでわかりにくい記述があると、わからない。自分の癖と同じ書き方をしている本の箇所が、かえって読めないわけだ。
「𝗚𝗢𝗗 𝗢𝗡 𝗧𝗛𝗘 𝗖𝗢𝗗𝗘 碼神 | 1990s Ambient Vaporwave」という動画がいい。
ムージルが愛によって世界をつなぎとめる可能性を模索したが、そのテーマは普遍のようにおもえる。
九星という占いの法則によると今年の自分の運勢はどん底らしいが、たしかに今以上に巡り合わせの密度が低い状態は端的に死しか思いつかない。死は運命であり運勢ではないと考えると、これからはしばらく運気が上がっていくしかない。そう思うとありがたい気がする。
一緒に生活している人は重要である。毎日顔つき合わせて生きているのだから。
突然、オイディプス王のことが思い出された。ギリシャ悲劇のことを考えると、気分がいきいきしてくるのはなんでだろう。そういえば、ハイデガーが『形而上学入門』でギリシャ悲劇のことを話していた。読み返したら、『アンティゴネー』を引用していた。
古代ギリシャの芸術はたとえばロンゴスの牧歌物語があるが、近代に再創造されている。
クラウドファンディングは果たして成功するのだろうか!?
狂気や怖さ、不気味さを感じる度合、頻度、程度、そういうものは数値化できるのだろうか。
ハイデガーが古代ギリシャの哲学と文学を読解したように、古代中国思想や『古事記』や『万葉集』を読解すれば、(方法は同じではないだろうけれども)おもしろい思想や哲学が生まれそうである。ある意味で、本居宣長や荻生徂徠の成し遂げたのはそういうことだったのかもしれない。
一人っ子ということになっているが、自分には、母のお腹で死んでしまった兄弟(たぶん妹)がいて、お腹にいるときに幼い自分は「アイちゃん、アイちゃん」と彼女を呼んでいたらしい。その話をたまに聴かされて育ったので、その年の近い不在の妹の存在が自分にオブセッションとしてある。だからか「愛」というワードにも敏感というか、複雑な印象を持っている。もう父は亡くなり、母も覚えているかわからないので、自分だけの記憶かもしれない。
『古今和歌集』を座右に置き、ひっくりかえってパラパラ眺めている。
ベケットについて考えていた。
外国人で哲学好きな人は日本語を学んで哲学するといいかもしれない。というのも日本語ではまだ哲学があまり打ち立てられていないからだ。日本語で哲学しようとすれば歴史に残る可能性が微レ存。
教科書通りに考え行動することは悪いことではないだろう。ただ、思った以上に人間は読んだものに影響されるということを知っておくと、ドン・キホーテになるかどうかを選べる。なることも悪いことではないだろう。
ジョイスのモットーは、「流浪・狡猾」あとなんだっけ。新潮文庫の著者プロフィールに書いてあったが、あれは『若い芸術家の肖像』からの引用だと、あとで読んで知った。『若い芸術家の肖像』はおもしろい。丸谷才一さんの訳を読んだが、すばらしい作品になっていた。
季刊アープラ2026年10月号の準備をしている。にぎやかな雑誌になればいい。
アープラの書き込みがすばらしい。読んでいて飽きない。いいサーバーになったもんだ!
有吉とマツコの番組を流していたが、おもしろいなあ。
ひとつの事柄について、複数の本をつきあわせてアープラノートなどにまとめたい。この方法をするには本が必要だ。
さきほどのつづき。運気が最底辺のときほど、笑いと喜劇と笑劇の力をたっぷりと得てぞんぶんに発散させなけりゃならない。ラブレー、セルバンテス、ゴーゴリたちとまた会わなくちゃ。
中山眞彦の『ラブレーとセルバンテス』は、いい本だった。
笑いだ! 笑いなのだ! ハハハハハーッ!
創作の中では、陰謀論者でもあり、反陰謀論者でもある必要がある。あらゆる意味で愚かであり、賢くもある必要も。
『1Q84』で、村上春樹は自由自在に語りのフレームを使っている。たとえば小松が監禁された話を天吾に語ることで、教団側の人間と天吾側の人間との繋がりを作り出している。作品の構造のレベルで。
07/02
事業(の準備)を手伝っている。
コンビニのおにぎりを食べた。おいしいが、値段が高くなっているなあ。
葉巻の煙の香りはいい。
キンドルで無料で英語の古典が読めるので、ダウンロードして読んでみている。なんとジョン・ロックの哲学書が読める!
人生は追いかけっこ。
コーヒーをよく飲んだ一日だった。
VCで楽しく話した。テキストチャットだったけれども。
縁あって、イラストやポップについての書籍をいくつか手に入れた。ありがたや。
体系的に破滅したものは、体系的に復活する。
自分の生きる道はおおむね文学にあり、ほとんど労働にはない。人は、それが可能で許されているならば、己を活かす道を生きるべきだ。
或る書物に対幻想を抱くことは、たとしえもなく素敵なことだ。
07/01
有意義な時間を過ごした。
ボラーニョの短編集、『売女の人殺し』とは、えらいタイトルだ。いまタイトル作を読みはじめている。
人に、間一髪のことがあったが、無事に解決した。よかった。
骨丸さんから、アープラのマスコットのようなものだとのお言葉をいただいたことがある。今後とも宣伝広告塔として頑張ろう。
そういえばアープラのVCで議論をする率が減ったきがする。というかVCにあまり入ってないのだが。熱い議論をみんなでやったのはおもしろかった。きっとまた機会があるだろう。
アープラのような場所は、とにかく存在することが重要だとおもう。存続、持続。つねに存在し続けることが重要なのだ(二回言った)。
周囲には将来役立つ語学(英語)を勉強しているといって、たっぷり時間をつくっている。もちろん、英語の勉強もしているのだが。
日本は思ったより社会での実質のPC普及率が高くないようなきがする。おそらく「Z世代(?)」が社会人に多くなっていけばPCの有効活用はふえるだろう。
「Z世代」とはなんだろう。最後の世代のような語感がする。この次は一周回って「A´世代」とかになるのだろうか。
ここ数年で文章の奥行や距離を発見できたのがうれしい。この発見がなければこの日記やいまの言語活動もなかった。
インターネット上の人格とはつまりは言葉なのであって、「私」というのも言葉にすぎない。これは文学や哲学がしばしばぶちあたった壁だが、その壁がまさに現代の最重要ツールのひとつになっている。
パソコン関連ではない道具の発展は、ダイソン、ドローン、ロボット、兵器などだろうか。道具研究家ではないからわからないが、近現代は道具の開発が発展したのか、それとも停滞しているのか(発明は多いのか)。
現代を批判的にみるのが好きである。なんとなれば、現代は現代人には語りつくせないしそれだけ強靭な時間軸だからだ。古代の石碑を丹念に慎重に解読しようとすることとはわけがちがう。そこでは日々歴史がつくられていく。驚くべき出来事がニュースとして世界を駆け巡る。それに遭遇しているのは当事者だけなのに、われわれも同時代人としてある特別な感覚をもつ。この同時代感覚だけが、ファシズムやデモクラシーの範疇に入りきらない情報主義とでもいいたい現代の規範だ。「夢(無意識)」の時代といっていい。
仕事中に考えていることと自宅にて考えていることとまったくちがう。この変わりようは驚くべきものだ。そしておまけに、ものを書いているときに考えていることもぜんぜんちがうのだ。
道元を読んでみたい。心がどうなっているのか。日本語でそれが書かれた本を読んでみたい。いや、そういう本は多々あろうが、そのうちでもなにか、そこはかとない魅力を感ずる。
英語の勉強がはかどっている。5年後にはペラペーラになっているだろう。イエース!
(国民)年金というのは払っておいたほうがいい。払っておかないと、いつ病気などになって払っているかどうか問題になるかわからない。自分は昔、払っていない時期がたまたまあり、本来なら権利としてもらうべきはずの十分な年金をもらっていない。システム上、無理な話になったのだ。こういうこと(年金などのこと)は学校や公共の場で教えた方がいいし、もっと周知して常識化したほうがいい。
いままでの人生で稼いだお金が、100万円を確実に越さない。驚くべき貧困だ。しかしものが買えなかったり飢えるわけではなく、むしろ部屋がモノであふれたり、ジャンクな食品を食べて太ってしまったりする。困ったものだが、シュールでおもしろくもある。
ネコの化身になる空想をして、警察に捕まったことがある。詳しくはいつか話そう。
ヘンペルという人が英語の本に出てきた。何者だろうか。
意外なことのくりかえしは人に感動を与える。
大江健三郎の文章は悪文だというのが定評のようだが、そうではないようなきがする。崩壊を予感しながらギリギリの境界で意味が通じている文が美しい文だとすれば、大江の文は美しい。
フランシス・ベイコンの絵を最近鑑賞していないことにきづき、ひっぱりだす。古典時代からのオブジェクトが裏返ったかのような姿。フランシス・ベイコンのあとにはどのような絵を描けばいいのだろう。反語ではなく、単純な疑問である。ぺピアットによるフランシス・ベイコンの伝記を読みかけているが、ベイコンは、いいものを知っている。さまざまな芸術を摂取して成長した芸術家なのだ。
そういえば、英語以外のヨーロッパの言葉を読むとそのあと英語がしばらく読みやすくなる。気のせいもあるのだろうが、その気のせいでブーストされるのだからしめたものだ。そもそもいま英語をたらたら勉強しているのも、ムージルが翻訳したくてはじめた(そしてまだそれはなされていない)ドイツ語を朗読していたらなんとなく似ている言語である英語が恋しくなった……というわけだ。ほとんど知らないドイツ語より、若干知っている英語のほうが距離が近く感じるという相対性理論である(?)。同じ理由でスペイン語も英語のブーストにつながる。各言語の語彙と文法とを覚えていけば、この感覚はより大きくなり、総合されていくだろう。たぶん。
アープラや先人たちのお陰で思想・哲学にも馴染んできたことだし、そろそろコアとなる思想家・哲学者を見つけて読んでいくということをしてみたい。文学者なら埴谷雄高やムージルがすぐに思い浮かぶが、思想・哲学だと取り組んだ人や分野はまだ思い浮かばない。誰にしようか、どれにしようか、たとえば前述の二人にはカントという共通の関係する哲学者がいる(特に埴谷雄高)。ムージルにはニーチェやエマソンといった参照元の思想家たちがいる。いままで埴谷とムージルの独自研究をやっていて辛かったのは、二人とも本業が小説家だから、体系としてではなく物語として世界を記述している。そこからその思想のエッセンスを抽出するのは骨が折れるし、妥当かどうかも確認する術がない。愉しいことはこのうえないが、それらをどう総合しようかで頭を悩ませる。いまは勉強期間なので、そのうち再開する埴谷・ムージル読解と解釈と思想抽出とその体系化のために、何らかの知の栄養を補給しておきたいものだ。
『青年の環』を積ん読しているが、これはどのように読みこなしていくべきだろうか。これを読むなら、同時に『神聖喜劇』『富士』『レイテ戦記』も読んでいかねばならないはずだ。これらは、戦後の代表的な巨大文学である。
『死靈』の形而上的本質は、カントやハイデガーと対比するべきものなのか、日本古典の幽玄とつきあわせるべきなのか、はたまた。
『死靈』と『特性のない男』に出会って、いわゆる「バリエーション豊かな読書」からは身を引いてしまった。
まるきりの妄想というのは恐ろしくない。現実と順応しそうな妄想こそおそろしい。
ところで『特性のない男』の新訳は、全訳版が出るのだろうか。抄訳版の売れ行き次第だろうか。出版・文芸文化上意義のある試みなので、できれば全訳を刊行したほうがいいとおもわれる。さもないと日本の読者が増えない。
言葉に費やされた「熱」こそが、文の圧倒される感覚を生むのである。
季刊アープラの編集長をすることになった。どうするか!?
この日記をあまり装飾やリンクづけしないのは、のちのち別媒体で成形しようという魂胆があるからである。それにしても、すこしさびしい。
中原中也の詩に、「樹脂の香に」という一節があって、「じゅしのかに」と読んでいる。「女子の蟹」ではない。
ベテランのお笑い芸人は同じネタを何度もやるが、何度も見ているとこちらもそのネタ、芸に没入する。時には「ゾーン」に突入することもある。
錬金術の分厚い本を読んでみたことがあるが、ふだんつながらない概念どうしをつなげたりしていて非常に知的刺激にあふれる体験になった。実際に手を付けない分野の本でも、いちどは目をとおすのがいい。
七月は一日目から3000字を超えてしまった。この計算だと一か月に9万字はいく。これは中編小説の量だろう。なかなかのこと。
テート展の一環として、この前まで東京にフランシス・ベイコンの絵が来ていたのだが、見損なってしまった。残念!
その日に買ったり頂いたものは、その日のうちに消費してしまう。
『佐川ちか詩集』の一篇を読み、恍惚となる。
最近、タバコを吸う人と多くかかわるので、一人でいるときもタバコっぽい匂いがすることがある。懐かしい、久しぶりの感覚。
『鏡子の家』を少し読んだ。自分はまだぜんぜんこの小説を読めていない、と思った。