読んだもの日記(イ)2026年6月
06/23
静かな労働。わっせわっせ。
見通しが変わった。
ジョージアのカフェラテ。
「」『』《》などの記号の使用に癒しをみいだすことができる。
つぎの選択肢がみつかるまでは、どう維持管理していくかが重要だ。
ニコ生をやっていたころ。かなり個性豊かな人たちがおり、配信者やリスナーになっていた。また機会があればやってみたい。
生物の教科書を読むかのように、小説を読んでいる。
さえない材料のほうが、いい文学作品ができる。
たとえばゴシック建築のような小説はまだ発展途中にある。音楽や建築、美術に比べて未発達な部分も文学にはある。
バッハの曲を聴いている。マタイ受難曲。昔の人はどういう気持ちでこの音楽を奏で、また聴いたのだろう。完全なる形式の奥にいるはずのキリストを想ったのだろうか。それとも、教会に流れる心地よい調べとして素朴に愉しんだのだろうか。もしくは、われわれには知る由もない、果てしない遥かな深淵にむけていつまでも祈ったのか。なんにせよ、俗世の生活の中心に教会音楽のような世界の摂理を表そうとした芸術があった時代は、いまからみれば幸福であったと言えもしよう。
キリスト教徒ではないが、清貧のような生活をしている。悦ぶべき哉。
リバーダンス(吹奏楽、ビル・ウィーラン編曲)を聴く。中学のころやった曲(正確には入部したてで下手だったので参加していない)。バッハを聴いていたら似た響きの部分があって思い出した。おそらく同じ西洋音楽ということで流れがあるのだろう。さすが音楽の父である。それにしてもリバーダンス、とても美しい旋律。
文学者からしたら、のちの世に言い回しのひとつでも残れば本望だろう。
帝王のような芸術家がいない現代は少し寂しい。
小学校のころの、校長先生の一聴すると退屈なお話が、案外に大切な経験なのかもしれない。
クラウドファンディングのほうはいっこうに集まらない。しかしこれでもいいのである。試みにやっているからだ。成功したらよし、失敗したら次へ。私にはつねに創作とお金の間で引き裂かれる必要がある。
なるべく多くの文章を後世に遺していきたい。
『新明解』を読む。
カトリックローファイなるジャンルを見つけた。
ネット上の名もなきテクスト生成人になりたい。ネット上にニッチな怪文書をばんばん書き散らしていき、紹介していきたい。
多国語に翻訳されてないボラーニョの著作はまだいろいろあるらしい。
一人の作家は、同時に一冊の書物でもある。
『2666』以降、小説は解体されたと思う。一冊の小説によって。
アルトーの『カイエ』を朗読した。朗読に力を入れていきたい。
06/22
スムースな労働。
ボスのペットボトルのコーヒー。なかなか。
設計図。
食は大事だ。
ヴェイパーウェイブを流している。
ヴァージョンを新たに何度も発表して、少しずつよくしていく。
外山滋比古『思考の整理学』を読む。何年ぶりだろうか。
すでにあるものをつかって、新たな意味のあるものをつくる。
40歳くらいになったらお笑い芸人になりたいな。絶賛相方募集中です。
サナエトークンってなんぞや。
哲学書ほど真面目に読む度合いによって得るものがちがってくる本もない。
『The Alexandria Quartet』を音読する。
人体は血液で満たされている。血液は一般的に赤い。人間の知覚する赤いという概念はそこからもたらされているのではないか。知覚を形作るのは知覚を生みだす材料(人体)から演繹(帰納?)されているという仮説。
『Schizophrenia: A Very Short Introduction』が読みたい。自分の宿痾について一家言もっておくのは紳士のたしなみのひとつだとおもうからだ。科学が発展し、明晰さが称揚される時代に、難儀な病にかかってしまったなというお気持ち。
ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』なんかを読むと、圧倒されるとともに、これでいけるのか、という思いもわく。それは多義的な意味をもつ感慨だ。この方法でやっていくことができるのかあ。これではたしてどこまで遠くへいくことができるのか? こうやってつっぱしっていいのだろうか。これで多くの人々が住むことができる、巨大な無何有境が創り出せるのか? ここまでいけるのか?
延々と続く同じ映像にひたすら効果音や音楽を流し続けている動画に奥行きや詩情を感じてしまうのはなぜだろうか。
日記だと、ほとんど敬語を使わない。これは自分の文章作成上特殊なことで、裃を脱いだようでとても愉しい。
誰か一人でもこの日記を愉しんで読んでいたらうれしいことだ。
どんな人間であっても、これからは協力してやっていかないと、人間ひいては人類はやっていけないだろう。難しくもあり面白くもある時代と世界だ。
英語のラジオのような動画を聞いていた。なんとなくはわかるにしても、英語は耳に新鮮に響く。
こんなに勉強するためのツールがそろっている時代も珍しいだろう。勉強に取り組んでいれば何か結果が残る。
インターネットの普及によって、画一的な物質的豊かさへの憧れは少し後退するのかもしれない。さまざまな情報をえることで各個人の生活が相対化されるからだ。テレビとはちがい、その相対化の程度が非常に大きいし、興味・関心・好奇心・行動力と比例して入手する情報が多様化する。
無意識の構造体としての小説。あらゆる言葉の集積。
06/21
ワールドカップ。日本VSチュニジア。前半、日本が二点先制。
イッセー尾形が『セールスマンの死』を演じるそうだ。
『松浦寿輝詩集』を読む。
技術に裏打ちされたのではないカリスマもある。
すべてのものが意味を漂白される時というものがある。そのとき、世界は自由に感じられ、われわれは踊ることができる。
英語の小説を読んでいるが、学問やビジネスで使うために勉強するには、辞書や単語帳があったほうがいいだろう。なぜなら、何度も何ヶ所も読んでいるとだいたいの意味はわかるようになるものの、細かく正確な逐語的意味はまたべつのトレーニングをしたほうが効率がいいとおもうからだ。
『ロングマン英英辞典』は、限られた語彙で全ての語を説明しているそうだ。よくできたパズルのようだ。日本語でもそういった芸当はできないものだろうか。すでにしているのかもしれない。『新明解国語辞典』などはそのようにつくってあるようにもみえる。
「美しい日本語」とはよくつかわれる言い回しだが、「美しくない日本語」とはどんなものだろうか。たとえばごつごつした読みざわりの日本語の文章は、美しくないのだろうか。このへんのことを語り合ってみたい。
青空文庫で『罪と罰』を少し読む。やはりドストエフスキーは落語のようだ。芸のテンションがある。まるで荒々しく綱渡りしているような。ドストエフスキーの文学は、あらゆる描写や比喩が入れ子構造になっており、それぞれの表現が互いに認め合い、打ち消し合っているため、作品全体はいかようにも解釈可能な悪夢のようになっている。気軽に何か論じようとして足場を建てようにもずぶずぶと泥濘におちこんでしまう種類の芸術だ。
とにかく人と会うことが重要な時期もある。
原稿料を用意して、文芸同人雑誌を編みたい。号ごとに寄稿人数を限定して、応募者のなかから選考するという方式。選出された書き手にはAmazonギフトなどで原稿料が支払われる。まずは原稿料なしで執筆者を募ったほうがいいか。
2021~2024年の四年間発表してきた文章(評論系)をまとめた電子書籍を出版する準備が終わった。もう少しで出版されるはずだ。
本屋に行って、英語の単語帳をみたりしていた。
『豊饒の海』四巻は、タイトルのとおり、読んでいると海の感じがする。豊かで、とりとめがない。ある表象が現れては、ただちに消え、またべつの表象に変容してゆく。寄せては返す波のようだ。
宇多田ヒカルのちびまる子ちゃんのエンディング曲はとてもいいなあ。
お金と時間と空間によって人間は制限されている。自由をいくらか剥奪されている。それは同時に個々の人間をかたちづくってもいる。近代的人間像。
なにを書くにも、言葉が必要だが、せいぜい語彙は限られており、また限ることで理解しあうことができる。そして分野ごとに語彙や文脈の意味の方向というものがあって、同時に分野を横断する意味の流れがある。そういうものをみていくことをしたい。
かつては上野公園か隅田川ぞいでホームレスをしたり、インドで餓死したりしたいとうそぶき、また思い願ってもいた。いまはそこまで強く思わないが、かつてより近い生き方になりつつあるかもしれない。
もし小説を書くのなら、三島由紀夫の言っていたとおり辞書を読むのがいい。書きはじめたはいいものの、つづきになにを書こうか思いつかないときに、とりあえず辞書の言葉を置いてみる。するとつぎの展開につながってくる。例……海の場面で、風景描写として「消波ブロックに波が当たって砕けていた。」と書くなど。
書く作品のジャンルによって文体も変わる必要にかられる。たとえば「詰まり」と書くか「つまり」と書くかとか――は内容や構造、分量によって選択される。
06/20
静と動。冷めとノリ。
少し前までの性格を忘れてしまう。
労働だいね。問題が明確になったぶん、今後やるべきことが道筋ついてきた。
アドルノの本の朗読を聴く。思弁の力。太宰治の文章の朗読を聴く。表現の力。すごいものだ。
手指を挟み、叫び声をあげてしまう。
いちど、「無欲」という境地に入ってみたい。凡人でもできるのだろうか。
ボーちゃんの力んだ声と朝鮮中央テレビの女性キャスターの声調が似ている。
デイジー・ガレスピーを流す。独特のバスクラリネットの音色。
パンディロのふとしたリズムに訛りあり
無為無欲の極意書かれた本ポチり
「みんな欠伸をしていた。」ある小説の書きだし。
文芸の同人誌はどのように変遷しているのだろう? その趨勢をほとんど知らない。
自分の信じる道を追及するのが芸術家だ。アープラやその周りの人にはそういう芸術家が多い。
『ソレノイド』は日本語になる予定はないのだろうか。ないなら英訳を読むしかないのか。
雨が降っているので、ドライをつける。
アープラの梅雨のイベントに参加。
06/19
いろいろと発見があった。前途多難である。
だれもいないゲームセンターはいいものだ。かつて人のいた感覚と、現在の寂しさが同居している。ヴェイパーウェイブの世界観そのままである。
本屋に行った。さまざまな本に出逢うことができる。多くの作家の名前を目にすると、豊かな気持ちになる。
いぜん買った『新潮』2025年11月号をひっぱりだす。新潮新人賞が発表されている。村上春樹が作品を出している。萩原朔太郎賞の発表があった。小林秀雄賞の発表。
文学作品の前衛性とは、発表したそばから模倣され、剽窃され、乗っ取られる運命にある。われわれはつねにパクっており、パクられている。言葉はもっともその程度がはなはだしい人間特有の表現のありかただ。
私は何も考えないで文章を読んでいることが多いが、世の人は何かしらチェックしながら読んでいるのだろう。その真面目さがほしい。
ウォッシュト・アウトを聴いている。朦朧としたサウンド。「washed」で「ウォッシュド」ではなく「ウォッシュト」と発音するのは、ピンとこない。この発音の使い分けがまだ感覚としてわからない。
人生は一篇の長編小説を書くことに似たるかな。
新しいかたちの文学の世界というものもあるのではないか。
いちど全力でなにかを書いてみて、それからちがう言い方をさがして書く。そうすることで文章の豊かさがあらわれてくる。わかってくる。
小説などの風景描写を読んでいると、スッとすることがある。風景だけ描いているような小説があれば読み耽ってみたい。
ついつい漢字をひらいてしまうようになったが、漢字ばかりの文章も書いてみたいし読んでみたい。
『八本脚の蝶』。このような散文がこんなにはやく(おそく?)世の中にひろく明らかにされたのは驚くべきことではないか。
『世界99』。ゆっくり読んでいきたい。
村上春樹の作品には支配者としてのアメリカ、狂気の幻想をもたらす恐怖の象徴としてのアメリカが背後に思想として駆動しており、大作『1Q84』の舞台が千葉県なのも、太平洋に面した「アメリカに最も近い県」が千葉だからだ。
MMMの小説『魚の夢』は、村上春樹の狂気のアメリカ像を継承しており、その著作内で村上よりつっこんだ資本主義と精神分析と戦争の幻想が語られる。
大半のドストエフスキーの読者は、そこに忌まわしいものを見て、作家や作品を好きではなくなる。しかし驚異的なストーリー・テリングで強制的に《読ませられる》のだ。なかにはキャラクターに恋をする人もいる。
ドストエフスキーの表層の真似をしただけでは、その作品はひどく空虚なものになる。
多作な創作者といったものに親近感と憧れをもつ。その作品のひとつひとつに丹念にコメントをしていくことは大切だとおもう。
いつか季刊アープラの編集長をやってみたいものだ。テーマを考えたことがある。はたして……
その時代に顧みられなかった物語が、ヒットする物語である。
田舎にすんでいるからか、テレビゲーム、ゲーム屋、ゲームセンターの叙情といったものを感じる。
昔の人は、少しパソコンをみるだけで目がチカチカしただろう。パソコンの前に長々と座っている私たちは、思想までもがチカチカしているにちがいない。
後期の、俗っぽくなってからの三島由紀夫の文体は、今なお新しい。時代の最先端をいきたい人は全集を買って読むべきだ。
英語には、カタカナしかない、と考えるべきだろうか。それとも漢字しかない、と考えるべきだろうか。英語には大文字、小文字、スペルですくなくとも三種類の階層があるわけだが、日本語でその階層を表現することは当然ながら不可能にちかい。
文体がどんどんMMM(骨丸会長)に寄っている。その時代の文体は、その時代に支配的な文学が決定する。もう村上春樹の時代も交代に近づき、次代の後継者争いが始まっているのかもしれない。つぎはどんな時代になるのだろう。どんな言葉づかいになるのだろう。
自分は18歳を過ぎるくらいまで自分の個人的な文章をほとんど書かなかったようにおもう。といってもメールはしていたので、なにかしら自分の言葉を書き、他人の言葉を読むことはしていた。けれども文体というものをもっていなかった。それは開示したい(周囲に見せたい、表現したい)自己がなかったからであると思われる。だからツギハギだらけの文章を書いていたし、それは今でもそうだ。さいきんは多少の読書によって文体が矯正(強制)されてきた。だれかが読んだらなんとなくの文意はくみとれるような文章ではある。けれども任意のだれかのなにかの文章と比べたら、妙なかんじがするだろうともおもう。きちんと形に沿った文章を書くのは、コミュニケーションの場だけであって、創作や、こういう日記のような半私的な文章はまったく自由という名の無手勝流でつづってしまう。ケイタイ、パソコンの登場で、あるていど自由自在な文を誰もがつくることができるようになったが、それが名文を生みだしうるかというと簡単ではないだろうし、むしろ同じような文ばかり生成することになってしまうかもしれない。昔の文豪の文章などを拝見すると、一言一句に絶妙のニュアンスをのせようと四苦八苦している。こういう四苦八苦っぷりが読み手の心をうつ。
セルバンテスは落ちている紙でも何か書いてあれば拾ったという。読むためである。わたしもそうなりたいものだ。
文芸には、畢竟、文体の問題だけしかのこらないかもしれない。何を書くか、という問いには描きうる全てのもの、とこたえられるが、どう書くか、という問いには果てしない(技巧上の・つきつめれば哲学上の)問題が噴出する。いちど描かれたテーマ・光景・ものごとでも、いくらでもべつの書きようがある。
自分の文章は、つねに迷っている。その迷っているさなかの独り言が、だれかの目にふれ、新たな観点をうみだせば、これさいわい。
さいきんの若い人は、若いころから大量の文章に触れているから、しっかりしているという話をきいた。確かにしっかりしている。
充足した日々を送っている。
富としてのお金には興味が薄いが、ものごとが巡る駆動力としてのお金には興味がある。
読書がものごとの駆動力となるような方法はないだろうか。
自分はいまだ日本語が満足に書けない。つかいこなせない。だから読むのも遅いのだ。
文芸誌を読んでいると、言葉を大切にした文章がおおいなと感じる。とても豊かなことだ。
そういえば本屋で、短い英文がおおく集められている雑誌があった。どうやらわかりやすい文章たちらしく、欲しくなった。
『源氏物語』には、原文・現代語訳ともに、文章の書き方の面で影響をうけた。日本語でどのように文章を書けばいいのか、その(非常に高度な)お手本であって、和語と漢語の混淆文のいきつく果てであるかもしれない。複数のヴァージョンで読み、筆記で書き写すことで、ほんの少し自分の血と肉になったかとおもう。
普通の文体、普通のエクリチュールで小説を書いてみたい。
新潮新人賞の有賀未来『あなたが走ったことないような坂道』は立派な文章だ。高3でこんな見事な文章を書くということは、自分には想像もつかない。このことからわかるのは、今後の令和の文学は平成に比べレベルが高いものが生まれていくということと、自分はおそらく文学賞には縁がないということだ。
俺の屍を越えていけ、と言う側になってきた。言われたことはないけれども。
実体験だが、型を習わないと、なにが普通の水準かがわからず、10年は遠回りすることになる。
誰かに伝える必要にかられて書いて話していると、自然と言葉の力は鍛えられる
06/18
充実した仕事っぷりだった。
怒涛の英語力を身につけたい。
『The Avignon Quintet』を読んでいる。
今後の見通しを考えた。
人は言葉で考える。言葉で考えをつたえるからだ。
毎日日記を書くことは愉しい。将来に役立つだろう。
同じような記述のくりかえしであっても、かまわない。
小説を書いている・書きなおしていると、おもしろいうえに、発見がある。
私はどこからきて、どこへゆくのか。
実質の生活費一万円ほどの生活をしているが、そんなに苦ではない。むしろ創造的な日常が可能になる。
欠落ゆえの悦楽。
まったく暇な日はないが、忙しい日もない。
とても上手な人ととても下手な人を重ね合わせれば、おもしろい創作になるんじゃないか。
服にかかわる仕事をしているのに、服をほとんど持っておらず、目だってオシャレもしない。
06/17
何はともあれひと安心。
『漢字典』で、『老子』の文言のピンインを調べていた。
いまや、自分がメインでつかう言語を自分で選べる時代だと思う。どの言語に参加し、その言語をゆたかにしていくか。
実は、猫と暮らしているのだが、なかなか愉しい。
恋に悩むだけの人生もいいじゃないか。そういう人はロマン主義者たれ。
自分のいままで(キーボードで)打った文章を全部まとめて電子書籍にしたい。そこまでいかなくても一箇所に集めたい。
文学のヴェイパーウェイブがあってもいいようなきがする。
文体とは何か。ひとつには、「分析の仕方」ということもできる。ある文体を獲得すれば、ある分析ができる。
西洋の思想は切れ味が鋭いが、鋭すぎるときもある。それに比べると日本の思想は「やわらかい切れ味」である。
小林秀雄の『本居宣長』を読みはじめた。ゆっくり読んでいこう。
五年、十年、十五年、二十年スパンでものごとをみていき、なにかをやっていくことが少なくなってはよくないのではないか。
ペーパーバックをゲラがわりに、加筆修正をしている。まだまだなおすところがたくさんあるし、そのなおすところ次第で作品の質や意味自体が変質していく。これだから小説を書くのはやめられない。
メタフィクションというのは、読むほうも書くほうも一言一句きがぬけない。
自作の続編を構想していた。目立たない登場人物が主役になるのもいいかもしれない。
そういえば、さいきん、作曲をしていない。いま作ればなにかできるかもしれない。やってみようかな。
06/16
うどんを食べた。
小説のアイデアは考えてみればけっこうひねり出るが、それをかたちにするためには時間が必要だろう。
形式・様式に沿ってかたちをととのえることは、重要だろう。
赤ちゃんや子供が目にした世界は新発見と驚きとに満ちている。
この日記はブレインストーミングになっていい。
その言語のもつ音楽性というものがある。クレオールの音楽性とはどんなものになるのだろう。
長い文章のおもしろさといったものに目覚めてきた。
そろそろ英語で哲学を読んでみたい。このまま文学を読むのもいいけれども。
ベースとなるものがないと、人は根無し草になってしまうという。なにか、わずかなものでいいから己を大地に定着させ、定義づけるものがないと、人はふらふらと寄る辺なく浮遊することなってしまうのだろう。たとえば人であり、言葉であり、ものであり、自然であり……そういったカナメが多くの人には必要だ。
今日は休みなので、のんびりしている。
そういえば、ちかごろの自分は退屈しているのかもしれない。しかし退屈のなかにもみるものあり。
CRAFT BOSS 世界のTEAがおいしい。こういう飲料がどんどんおいしくなっているとおもう。これだけの味が安価で手に入れることができるようになったのはえらいことだ。
ある文章があったら、それを分解して辞書で調べていく。……それをくりかえしていけば、「意味の拡散」がおこる場面に衝突する。さながら川底の岩が砂にけずれていくごとく。意味というのはもつことができる。意味はつながることができる。だが意味のつながりは刻一刻と変化する。
一語一語を一人ひとりのように慈しむことだ。
なにごとにも、迷いがちな人は、たびたび迷うが、私もそのひとりだが、これは西洋科学ではまだあまりうまく捉えていないようなきもする。
Macroblankの音楽を聴いている。流している。いいかんじがする。
近年のVR空間やAIや社会現象や世界情勢を取り込んだメガノヴェルが、そろそろあらわれてきてもいいのではないか。無理におもしろいものを書こうとおもわなくてもいいきがする。
無理におもしろいものを書こうとおもわなくてもいいきがする。大事なことなので二回言いました。
ボラーニョは、『2666』を本気で解決させようとおもっていたのかもしれない。すなわち大団円。ふとおもった。
さいきんの仕事は商売なのだが、商売はやったことがないのでイチから覚えなくてはいけない。なかなかたいへんだがおもしろい。もっとはやいうちにしっておくべきだったかもしれない。
ピンチョンの『逆光』を読んでみたくなった。
巨大でエレガントなポストモダン小説が読みたい。自分で書くために勉強してもいいが、勉強して書いて発表したらいつ楽しんだの? ということになる。ひとまかせにしっぱなしでも、よくないが。
『女神転生』のドット絵くらいのタッチで小説を読むようにしよう。あれをもうちょっと洋ゲー風にして色をどぎつく描画を細密にしたかんじで。
小説家になろうで『ヴェクサシオン』という小説の連載をはじめた。これは『まだら牛の祭り』をリライトして加筆修正したものをさらに書き換えた最新ヴァージョンの小説だ。いったん30万字以上に膨らんで、またエッセンスを抽出したため、現在20万字くらいになっている。
暑くない夕方に畑仕事をした。作物が育っていないようでガッカリ。
小説のなかのくりかえしは、どこまで許容されるのか?
人がおこなったことは、だれにもその理由がわからない。解かれることのない謎。
大きな地震が起こったようだが、大丈夫だろうか。どうなるのだろう。
ハッハッハ! いままでのこの日記には伏線が張り巡らされていたのだ! 真相はコチラ! ジャジャジャーン……いや、とくにないっす。適当ぶっこいただけっす。すいません。
日本の近代文学は、日本の無意識の発露だったのではないか。現代文学は、いまやっとその段階を抜け出しつつある。
夢の論理といったものを追い求めていくのが人のサガ。
生活保護からの再出発となるが、夢を求めてがんばろう。
06/15
ひさびさ三島由紀夫の短編に目をとおす。ひらがなと漢字のつかいかたがわかって、おもしろい。そういえば、彼の小説にたいしてはつまみ読みというものをあまりやってこなかった。いま改めて読むと発見と発想がえられる。三島由紀夫が生きていたら、現在の小説の文体についてなにかコメントをしているに決まっているのだが、彼はいない。
自分はおしゃべりが好きなのかもしれない。書いてる文章を自分でみてそう思う。
自分は趣味のパフォーマンス・アーティストなるものなのかもしれない。そう名乗るのは気恥ずかしいので、名乗らないが。クラウドファンディングもその一環だ。
『1Q84』は売れたそうだが、当時みんな読んだということか。村上春樹は言葉の呪縛力がすごいので、なんらかの影響をうけた人は多そうだ。人生観が変わった人もいるだろう。琴線にふれたフレーズが無意識の底に沈んだ人もいるだろう。……言葉の魔術師といっていい。たぶん英語からの翻訳語を駆使した文体なのだろう。英語で読んでもあまり違和感がない。英訳してもつたわる文体なのだ。村上春樹の作品にはいわばハルキウイルスのような危険な魅力があって、読んだ人も小説を書いてみたくなってしまう。そして書いてみるだけでなく、ハルキ文体に挑んでみる。挑むとは模倣も離反も意味する。書き始めてからは、もうその人のがんばりの問題だ。
ギターを弾いてとせがまれて弾き、相手にも弾かせたら、自分よりも筋がよさそうだった。そんなこともあるさ。
なにごともノイズを消し去りすぎるのも考えものだ。一言一句を丹念に吟味することも重要だけれども。一方をひっぱると一方が引き伸ばされる。
『老子』を読むと、「柔らかく鍛えられる」。新しい力が湧いてくる。
『青年の環』の登場人物、主人公格の大道出泉の名前は、道家からきているのではないか。
現代を構成している言葉でシュルレアリスムをやること。難儀な道楽である。
漢字のかたちがあまり変わっていないことは、かなりおもしろい。
ひとりの作家からまなぶことは少ない。おおくの作家からまなぶのだ。
「めっちゃ悪いロッカー」みたいな存在は、いまいるのだろうか。いたら握手したい。珍しいとおもうので。
ダス・マンとしての時間をすごしている。
団塊の世代の高齢化とAIの社会進出が同時に進行しているが、こういう同時性は歴史によくあることなので慌てなくてもいい。
言葉によって他者につたえる道を模索・収集するために、辞書を読みはじめている。
「外来語辞典」がほしい。カタカナ語の詩情というものがある。
国語大辞典『言泉』を読んでいる。
『魚の夢』の二巻、三巻も読んでいきたい。いまはもちあわせがないので買い求められないが、いずれ買い求めたい。
自分は小説を読むとき漫画みたいな映像で読んでいるのだが、さっき風呂場でリアル目の八頭身くらいの人物像で読むのもいい気がした。みなさんは、どうですか?
下総は北総である。以上。
この日記はあまりウケを狙ってないことにきづいた、わたしはコメディアンだったのだ。思い出すうるわしの日々。
原稿を季刊アープラ編集の方に渡した。どきどき。自作が雑誌に載るのか~。
自分の小説を漫画化してくださる神マンガ描きの方はいないだろうか。いたらいーなー。大歓迎。
骨丸さんたちには飢え死にするところを助けられたので、ぜひともアープラのために頑張ろう。いくぜ!
大長編小説はいくら読んでも、終わらない。そのわりに読む人は少ないので世の中で役立つことや教養とみとめられることは少ない。なんということだ!
本の読み方や愉しみ方が昔と比べて変質してしまっているので、それをさらに変質させたい。
情報や思索は、けちけちしないで、ここに書いていこうっと。
ラヴェルを聴いている。
五年くらいのスパンで考えていきたいなあ。
考えがまとまらずなにを読んでいいかわからないときは、ドイツ語の本を読んでいる。とくに『Der Mann ohne Eigenschaften』。
ひょっとしたら、さいきんは、父が死んでのショックで軽い抑うつ状態に陥っているのかもしれない。そうだとしたらしばらく安静にしたほうがいいだろう。それにしても、抑うつだとして、それでこれくらいのテンションなのだからいつもはけっこうなハイテンションっぷりだったということか。
現代は情報共有が早いから、アイデアを出すとだれかがそれをヒントになにかやってくれるかもしれない。ひとまかせ。
いま考えているのは「フリーゲームのドン・キホーテ」という小説で、フリーゲームをやりすぎた男が狂って現実で騒動を起こす……というシュールギャグストーリー。
『胎界主』でも目下テーマになっているが、解体した自我を元に戻すことはできるのだろうか。はたして……
たとえそうすることが不健康だったとしても、父ともっと暮らしたかった。
あれは2010年か2011年、20代初めで統合失調症と診断され、以来スキゾライフをつづけている。精神的危機は初診前後と去年の入院前後。いまはおそらくラカンっぽいリクツでいうとボロメオの輪が戻りかけの時期で、何らかのゾーンに入っている感じはするが、あまり内面を人に明かさないので謎だと思う。小説は個人的な創造意欲と精神的危機とのつきあいで書き続けてきた。というと聞こえはいいが、精神病と文学はいくぶん関係があるようだ。音楽も同じ理由でつくってきた。落書きのような絵も。生来自分を表出するのが好きではないので、創造物も、自分と距離を置いた作品になっている。去年まではわりと鈍重だったが、さいきんは発見があっておもしろい(それも、おちついた規則正しい生活と、それによって可能になった頻繁な読書のおかげである。感謝。)。ある種の、言葉に関する感覚がうまれてきた。ただ、あまり「形式」を気にしなくなっている。これは良くない。乱調の病なので。しかし、創作だけが寛解の理由ではない気もする。さまざまな理由、交流、研鑽、笑い……があるだろう。それと、過去を反省、過去と和解、過去に反発するのはつねにしていかなければいけないんじゃないか、人が生きていくうえで原動力となるものなんじゃないかという気も、する。といっても、しばらくは瞑想モードをつづける。
06/14
小説家には自分の自我ではなく小説だけがのこるのだということを意識して書いてほしい。これも単なる一意見だが……
休日だが、することがあり、いくところがある。
モダニズムはモダンの終わりのほうの思潮・運動であり、いまはポストモダンの時代のようだ。だからモダニズムの芸術はポストモダンと架橋するものが多い。現代人が読んで共感するのはポストモダン作品よりモダニズム作品だろう。ジョイス、カフカ、プルースト、ウルフ、トーマス・マン、ムージル……最上の芸術はその当時の最新鋭の様式なので、市井の(外国の)われわれは現在やっと十二分に享受することができる。
自由間接話法、意識の流れは落語を思い出すとわかりやすい。
『アレクサンドリア四重奏』は豊かな小説である。これを読んでいる人にもぜひ読んでほしい。
アルファベット圏の人は、ひとつの単語をひとつの文字(たとえば漢字のような)として捉えているらしい。
老子は詩で、荘子は散文で哲学を語っているともいえるかもしれない。
古典を読むのは、ありがたい教えがそこに満ちていることもあるけれども、すでにわれわれの血肉としてつかわれている言葉がそこにあることもある。古典という大河から今という流れにそそがれている。
日本語というのは格言、アフォリズムを作りにくい言語かもしれない。
親戚といっしょに母に会いにゆく。そろって元気でなにより。昔話に花が咲いた。
クッキーをいただいて食べた。おいしい。
さいきんは数年前よりモードチェンジして、文芸活動に力を入れている。もっぱら読むことから、もっぱら読むことと書くことへ。変化。
変化という語彙は、「へんか」と読み、「変か?」と聞く音のかたちもふくんでいる。こういう隠された音韻を操ることができれば、味わいぶかい文がうみだせるだろう。日本語は奥深い。
『胎界主』の最新話までを読んだ。やはり独特の読み応え。
あまり旅をしないので、外国の本を読んでいるところはある。
『南総里見八犬伝』の現代語訳でもやっていこうかしら。読みながらおこなえば、勉強になるし結果があとにのこる。
古典でも近代文学・現代文学でも、辞書を使いながら読むことがほとんどなかった。今後は使うのもいい。
ギターをさわるのを忘れていた。日記をつけること、ことばの世界に入ることをするとついつい音楽の世界からぬけでてしまう。
06/13
のったりと仕事をした。スナック菓子を食べた。
有望な若者を実地に送り込んだ。
『文藝』2025年秋号と2026年夏号を読む。さいきん文芸誌のおもしろさにめざめた。小説は絵画のようなものであると考えるようになってから、文芸誌は画集のようなものだ。
言葉がちがえば、記憶の遺し方がちがう。
アメリカはあんなに健康志向で正義が強い国なのに生み出す芸術は不気味だ。芸術が何かの裏面を引きだすものだとしたら不思議ではないのかもしれない。しかし辻褄をあわせても不気味なものは不気味だ。そして不気味なものは大なり小なり不思議だ。
話がおもしろい人に「なにか書いてみれば」とすすめるのは、楽器がうまい人に「楽譜にしてみれば」とすすめるようなものかもしれない。
実は、小説の最後の場面を何度も書き直しつづけている。さきほども書き直したのだが、よく書けた気がした。
どんどん執筆をした。足したところをまた減らし、少しだけつけくわえ、削り……
イギリスの小説もおもしろそうだ。『アレクサンドリア四重奏』を読んでいる。
英語の本を読むおもしろさを知ったのは、たまたま古書店で見つけた『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のペーパーバックからだ。
そういえばクラウドファンディングのほうは支援の新しい動きはないものの、公開情報は更新した。資金が集まったあかつきに出版していただくのは「株式会社文芸社」様になりそうで、名前を出す許可もいただいた。自費出版を多く手がけている出版社なのだが、今回(いくつかの出版社に原稿を提案した)原稿を見てもらったところ、流通のかたちで出版していただけることになった。といっても資金が集まればの話で、それなりのお金がいるのでクラウドファンディング待ちというわけだ。このへんは新しいチャレンジでワクワクしているので、きちんとやりとりが出来ればいいとおもう。
本を買うのも借りるのも読むのも、話題性が重要だろう。いずれこの話題性を本にしたいとおもっている。
06/12
有意義な体験をした。
今後の見通しをたてていく。
『1Q84』を英語で読んでいる。
つねに新たな挑戦をしていきたい。
名前がわかるだけで美しいものやことがある。
人は意識すれば一年に30~50万字くらいは書くかもしれない。ただしずっと小説などを書こうとするとたいへんだ。自分の書いた文章が自分の書いた文章をうながしたり邪魔したりする。
オーケストラの一員として音の一因になっていたとしても、音楽の全体は知れぬ。一部には全てを知ることはできないのかもしれない。つまり知ることと在ることは同時に到達できないかもしれないのだ。
言葉も分解してみれば音や形、自然だ。
就職関係の英語の会議や文面にふれたが、まだ自分にはむずかしい。だがふれることはいい経験になる。
これからの人間は、時代によって、得意(つかう)言語をかえていけばいい。
日本人がアルファベットより漢字をつかいこなすのは、ハリー・ポッターより三国志のほうが人気があることと似ている。
ChatGPTにまだみぬ架空の書物の表紙をつくらせる日々。AIを使役するようになって、人はより傲慢になれるようになった。
われわれは、偶然の一致をいかにたくみに記述するかを誤りつづけてきたのである。
現代音楽みたいな小説をやりたい。
英語を耳で聴いていると聞きとれるのに意味がくみとれないワードが多くある。音楽を聴いていてリズムはわかるのに音程はわからないとかそういうかんじだ。
わけがわからない文章を意味がわかるように書くのはやってみるとけっこう時間がかかることで、自分が小説でとりくんでいることであり、ちょっと得意なことでもある。長編小説のかたちにするには長い時間が必要だ。自分は軽く十年はたっている。わけのわからないことを精緻にくみ上げて構造を作り上げたい。すでにけっこう出来つつある。
日記を書くと自らの偏執的な面がにじみでてくる。これは一般的かもしれないが。私で言えばたとえば『1Q84』と『2666』と『魚の夢』の話ばかりしている。三日に一回はでてくるような。
吉松隆のピアノ曲を聴いている。とても素晴らしい。
「言葉になっていない期待」について。それはあきらかにあるのだが、それにこたえるのはむずかしい。無言の期待の束のようなものが、革新への力になるのだろう。
アープラノート上のこの日記のことばの羅列は、だれかが黒板か机かノートの隅にもくもくとたんたんと記述した文章みたいだ。しかしもっと他の記述もふえてほしい。
いま書いている小説は、つぎはぎだらけである。いままで書いてきたいろいろな文章をぼとぼとと繋げている。繋げただけちゃうか。といわれれば、そうともいえる。なので修正して馴らしたりごつごつさせたりしなければいけない。そうすると読み物としてのおもしろみもでてきて増す。
06/11
夢をみて泣いた。追憶。
さまざまな考えごとをした。自分は言葉で考えることがおおい。
出先にノートパソコンと『新潮』2025年10月号と『新明解国語辞典』をもっていった。『新潮』は楽しく読めた。わりと固めの雑誌なのかな。
文芸は、書かれた言葉が全てなので、評価が極度にわかれる芸術だ。またそうあらねばならない。といっても、読まれるさい、この世にある他の言葉すべてとかかわっているので、文芸の評価にも時期というものがある。
この日記は言語実験でもある。そんなに目立たないかもしれないが、ひそかに実験している。
父の死の一回性。もしくは父の死は一回。父はいちどしか死なない。何度も死ぬほど父はいない。『カラマーゾフの兄弟』のフョードル。
外来語も日本語である。外来語だけで小説を書いてもそれは日本文学だ。
小説を書くなら文芸誌を読むと参考になるだろう。いろいろな書き手の文章にふれられる。もしくは文庫本の中古。
『カラマーゾフの兄弟』をとりだして読む。変動期に書かれた小説なので破調にみちている。よくぞひとつの文体で一冊の小説にしたものだ。おそらくこの小説をよおく分析して現代にパスティーシュしたら売れるだろう。あとあまりいわれることではないが(いわれているのかな)、ドストエフスキーは文体がおもしろいとおもう。ふつうつながらないところや描けないところをえがける。もしくはむりくり描いている。
音楽は聴くほうが、文学は読むほうがすきで、表現するなら音楽は短い時間(即興)が、文学は長い時間をかけてやりたい。
東京藝大オーケストラによるチャイコフスキーの交響曲第六番のライブ配信がやっているので聴いている。
現実の人間とフィクションの人間のちがいは、現実の人間がきちんとおまぬけなことをしたり失敗したりつまらないことをせっせとやっていることにあり、そこに現実の人間の尊厳があるのではないか。
東洋と西洋の合流ないし衝突は、妙なかんじになる。たとえば陰謀論。影での何者かのコントロールという話題は西洋では大変な問題になるが、東洋では昔からものの裏には何かとらえようのないものがうごめいているという考えがあるので、そんなに脅威とはならない。
道家を勉強すると、小さいもの、弱いもの、やさしいものに目がいき、その積み重ねがやがて大きな力の道となることを学ぶ。それを実践もしたくなってゆく。
06/10
ポテチをいただいたので食べる。うまい!
怖い話をきいた。
若手の日本語作家が大長編を書いて発表しないかなあ。
小説の内部で行われていることは、一種の儀式である。そこには書かれている言葉の構造と、書かれていないコトバの構造もある。書かれている言葉は、いろいろなことを存在させ、同時にいろいろなことを否定する。それによって読んだ人は書かれていないコトバを生み出す。よく整えられた小説は、このコトバの像をあるていど明晰に立ち上げることができる。これは芸術的な手法に関係なくそうだ。
人としゃべることがふえると、ひとりの時間がいちばんよくなる。不思議なるかな、心とは。
著者によって文章に書かれているアイテムの内容が異なっているハズだ、という読み方もある。たとえばミリタリー素人の私が「銃弾が飛び交う戦場」と書いたら飛び交っている銃弾は適当な材質のよくわからない種類のやつだが、村上春樹や芥川龍之介が同じことを書いたらきっともっと内容が充実しているか正確だ、というもの。
文芸誌「文芸アープラ」or「アープラ文芸」or「思想・哲学・文学・芸術の会」のアイデア。日本には四大文芸誌しかないのは文化の貧しさを示していてよくないことだとおもう。五大文芸誌にしよう。マイナーな書き手や作品やムーブメントを広め、遺す雑誌。
神話に出てくる人や神は現代からみると異常に元気がよかったり反応がよかったりするので、もし現代社会に暮らしていたら病院につれていかれてしまうだろう。神話を読むことは世界がエネルギーにあふれていた時代をかえりみるようで楽しい。それにだれもがそうであったように子供のころすら思い返される心地がする。
「その話いまする!?」という話をつなげていくのは新しい可能性を模索するいい文学だ。フィクションならではの、実用性や利便性をガン無視したナラティブ。ナラティブとは、「語り」という意味であるらしい。かっこいいのでぜひどんどんつかっていこう。使用例……この日記の、文法的・意味的に屈折したナラティブ。
この日記を読んでいてもわかると思われるが、自分は意味のねじれた文やフレーズをくりだすことに少しこっている。なのでどういうふうになるか書きはじめはわかっていないことも多い。キーボードを打つのに慣れてきたので、瞬発的に言葉を生み出す回路ができてしまったようだ。ひと昔前のアメリカの作家によくある、タイプライターをカチャカチャと叩いて文章をつくりあげるような気分だ。その気分にひたれる時間はなにものにもかえがたい。部屋でこつこつとガチャガチャ文を叩いているのは、光景に反して孤独な気分ではない。この日記のように短文を乱発する生活(仕事でもそういう面がある)をするうちに、このむ本や文章もわりとラフなつまり粗い、意味が(まだ)なめらかになっていない、生成されつつあるような文体のものになってきた。それからだ、英語の本をながめても飽きなくなってきたのは。いままでは意味がわからなすぎて読むのをすぐにやめてしまっていたが、洋書、とくに紙の本は読んで声にだしてさらにアルファベットの羅列と配置を吟味して愉しめるようになった。自分のなかの英語を解読する技術が低いから、英文を読んで粗い意味しかとれないのである。それがかえって自分の文章の生成に寄与することになったのだ。テキトウに書いてもいいのだ、文章は。それがなにかしらつたわるものであれば。統一することはないのだ、字面や文字・かなづかいは。あるていどまとまりがあれば。まさにズージャー。ズージャーな文章生成術である。こうやって書かれつつ読まれつつ書きつつ読んで書いている文章も、まとまったかたちで息の根をピンに停められると、別のうごきやながれをかんじさせる「道」になるのだろうか。
山本陽子という詩人を知った。重要な、すごい書き手だ。もう亡くなっている。その作品はいつまでものこってほしい。
私は小説を書いているのだが、小説にはよそから借りてきた言葉や文体をつかうことが多い。いっぽうでこういう日記のような瞬発的に書かれた文章には長年わが言語プールをたゆたってきた言葉の数々がつかわれる。といっても、逆のことも多い。どっちだよ。さいきんは、MMMやリクトーの文章にふれる機会があり、どんどんかれらの影響をうけている。書き手としての自分に文体はないとおもっている。もっというなら文体なき文体を志向していきたい。あなかしこ。
世の中、どうしたらいいかよくわからず、きまずいだけで、たいしたことはないこともある。
学生のころ打楽器を演奏していたのだが、いま当時のアンサンブルなどを聴くと、一見ただ叩くだけのパーカッション(打楽器の英語での名)といえど演者や楽器によって音色はずいぶんちがうということをおもう。あれは貴重な経験だった。今後も機会があれば絶賛なにかを叩いていきたい。こう書くとSNSで炎上をうみだす人みたいジャマイカ。
謎の作家MMMの実在の小説『魚の夢』は傑作かもしれない。なぜなら読んでみるたび印象がかわっていくから。これが文学における傑作というものだ。万華鏡あるいはプリズムあるいは磨かれた金属のようなモノ。さっき読んだら透明な感覚がした。読者に与える諸効果の一端は、Amazonのペーパーバックという装丁にもよるのだろう。Amazonのペーパーバックというジャンルはまだ十分に日本では開拓されていない。十分、だれでも参入の余地がある分野だとおもうのだが。ねえ、そこのあなた、書籍を出版してみませんか? 長いやつなら、私が買って読みますよ。
誰でもその人なりの校正ぐせというものがある。その人の書き方と修正の仕方にその人のこだわりがでる。これをエクリチュールとも呼べるかもしれない。ひょっとしたら呼べないかもしれない。
アタマからページを順々に読んでいくのと、パラパラとバラバラに読んでいくのと、本の読みかたにもいろいろあるであろうが、文芸とくに小説のような複雑でいて企まれた構造体の場合、読み手の選択したしかたで印象と余韻がちがうだろう。声に出して読むか黙読かでもずいぶんちがう。
そういえば『魚の夢』に日本国憲法の話は出てくるのだろうか。第一巻を読んでみるかぎりではめだってみあたらない。出てこなくてもいいのだが、出てきてもいい。日本の特殊性を論じる場合カギになるものなので、きになる。
いま書いている小説は、きっちり真面目に読んでいてもだまされるし、あっさり不真面目に読んでいてもいっぱいくわされる。しっかり丹念に読んでいくと驚天動地、というしかけ。いまだかつてなかった体験をあなたに。さだかでない書籍化まですくなくともあと数年以上。乞うご期待!
ひとついえるのは、今後は、前衛と保守の合一的な文芸こそいったんうまれるべきかもしれない。前衛とは実験的な文芸、保守とはその時代時代における一般的な文芸のことである。保守は時代によってさまざまに変遷し、前衛は時代にかかわらずそれ自体がさまざまなかたちをみせる。かえってこれらの変容ぶりをあからさまにあきらかにすれば、なにか面妖な嬉々としておもしろいものがうまれはすまいか。
06/09
日本文学は観察していてもあまり発展しない。すくなくとも日進月歩の感はない。保守的なジャンルだ。数学畑の人と話していておもった。日本語の性質と関係があるのだろうか。あるのだろう。数学と比較してなにかおもしろそうなのは、世界文学だろうか。いや、日本文学も世界文学もフォーカスする程度によっておもしろくなるだろう。
(クラシックの)作曲家が思い描いていた音と、実際に鳴ることになった音とはどう異なっているのかに興味がある。たとえばラヴェルの『ダフニスとクロエ』の「夜明け」は曖昧模糊とした美しい響きがするが、ラヴェルはもっと明確に頭の中で音像を鳴らしていたかもしれない。このように、想定していた音と演奏される音のあいだのひらきに思いをはせるのも楽しい。
もくもくとわけのわからない小説を書いている自分をはたからみたらこわいかもしれない。こわい顔で書いているわけではないけれど。
文学の危険性とは、言葉をつかって何かを表現していること自体だろう。考えてみれば危険なのだ。しかし不安を払拭してくれもする。わからないものだ。用法・用量をきにしておつかいください。
父の死によって、人間、人間の生というものが少しわかった。まったく完全ではないが、少しわかった。
村上春樹にノーベル賞がいかない。(天然の)シュルレアリストにノーベル文学賞をわたすのがそんなにいやだろうか。もしそうなったらおもしろいとおもうのだけれども。
村上春樹の『1Q84』は、感情の物語ではない。それは伝統的な情念や情緒よりも、意味や類推によって物語が駆動している。あの小説がみごとに完結したのも、パズルのピースを嵌めるように、欠けた意味を濃密に満たしていったからたどりつけたのだ。これからの物語のひとつの類型になるだろう。
長い物語はとても重要だ。生きている時間は有限だが、それが尽きるまでには読み終わるのだから読んでいくのがいい。
「しかめられた顔は昔と同じだ。顔中の筋肉が思い思いの方向に伸び、そこにある造作は見事なまでにほどけてばらばらになってしまう。世界中のあらゆる感情がそこに奔出する。美しいも醜いもない。それはある角度からは夜叉のように見え、ある角度からは道化のように見える。ある角度からはただの混沌にしか見えない。顔をしかめるのをやめると、水面の波紋が収まっていくように筋肉は徐々に緩み、もとの造作に戻る。」これは『1Q84』のなかでもきわだって謎めいて哲学的な一節。ここに老荘が鳴っているのを聴くのは果たして幻聴か? そうは思わない。ここに書かれているのはある意味で人間ではない。この顔の持ち主はなんとこの小説の主人公なのだ。
現代音楽がなぜ不気味に聴こえるかといえば、まだその音世界に住んでいる人がいないからだろう。シェーンベルクを口ずさむ人ばかりになれば、不気味さはなくなる。
06/08
読んだ文章によって他の文章の読み方も変わる。音楽とおなじ。
仕事でつかれ気味の人がいたので、これを補佐し助けた。
もよりの書店にいき、『文学界』と『文藝』の最新号を買い求めた。それぞれファッションと失恋の特集をやっていた。『文藝』には町田康『ギケイキ』の最終回が載っていた。なんだか終わりのような文章だなとおもって読んでいたらよくみると最終回と書いてあった。『文学界』の特集「ファッションと文学 again」は興味があるのでおいおい読んでいきたい。メタフィクションもあった。
『群像』だけ手元にもっていない。昔の埴谷雄高が『死霊』を掲載した号ならもっているのだが。
そういえば『死霊』をさいきん読んでいなかったなとおもいとりだす。よくこんな小説を埴谷雄高は書いたな、私は読んでいるなとおもう。とらえようのない虚的な意味だ。形而上小説なので時を経てもかわらない存在感があるのだ。存在感が無い、ということがテーマのひとつではあるのだけれども。それは、人間個人の存在感が薄い、という実存的主題でもあれば、存在から存在感を剥ぎ取って真の存在ならぬ虚の存在をもぎとりだそうという哲学的方法でもある。哲学的主題なら基本的にだれもが継承できるので、だれかが虚体(という名前ではないかもしれないが同じ線上にあるアイデア)とそれをめぐる思考を書くだろう。しかし、『死靈』のような小説、物語、散文を書くという文学上の問題は、だれも容易には実現できる確証がない。そして文学のコトバとは共有可能なものだというのが基本的な特徴なのだ。なのによりによって哲学と文学のマリアージュである『死靈』は、いかんとも模倣しがたい。
文体をめぐる美の感覚はいまもまさに変化している。
レトリック事典など、修辞についての本を読んでみたい。
小説を書くための文は、他の本に書いてある。
人と漫画・漫画雑誌の話になった。この話題はひろがりやすい。
「私はエミリー・ディキンソン」という小説がいいとおもった。
書いていた小説の新たなタイトルがきまった。今日は記念すべき日だ。あとはゆっくりじっくりとろ火で作品を推敲していくだけ……。
『源氏物語』はものすごい書物だ。読みとくにはまだまだ時がかかりそうだ。
06/07
英語の本を出版した。
畑仕事をした。人が増えたのではかどった。
臆病な猫は、人をこわがりつつ人とかかわって生きていかねばならない。気高く生きよ。
95年はまだイケイケ幼児だったのですが、けっこう終末観と昭和の残り香が濃厚な時代でしたね。エヴァのあとにオウムや地震があって平成の空虚な不気味さが露呈してきたかんじ。平成、好きだったなあ。
知識に偏りがあるから知が成立するのではないか、と言ってみる。人間はひとりひとり情報のなみなみ貯められたタンクみたいなものだが、その成分はとうぜん偏りがあり、その偏りが新たな情報やすでにある情報の関連づけをうながす。
一冊を何べんも読むより、対照的な二冊を何べんも往復するのがいいのではないか。
小説を加筆した。10万字くらいふえた。
古い友達たちと久々に話した。みんな元気そうだった。
06/06
移動した一日だった。
道の駅に寄った。若い男性が多かった。彼らに幸あらんことを。
言葉についてばかり考えていた。
ひと作業おえた。
英文を目にする機会が多い。
ドストエフスキーにはグノーシスの思想が流れているのか。なるほど。
和太鼓の演奏を聴いた。やっぱり最高だ。
今日は楽器の日らしい。
06/05
歯医者に行った。歯ぐきから血が出た!
複雑な作業をした。
新しいアイデアをひらめいた。
コーヒークリームを買った。
生成AIさまさまである。
今月はなにが起こるのだろうか。
テレビで武術としての太極拳が紹介されていた。達人の動きはつねにさりげなく、瞬間に厳しい。
06/04
嵐がすぎた。いい天気。
ゴキゲンにいこう。
仕事がはかどった。
ノートを活用した。
パソコンとノート。電子と紙。
フリオ・コルタサルを読んでみたい。
生成AIをつかって作業している。
ある傾向が、別の傾向を呼び込み……人は、傾向の渦の中で伸縮していくのだが、それがどうなるかわからない。
『新潮』2025年8月号を読む。エッセイを中心に。シュルレアリスム叢書について豊崎由美さんが書いていた。待川匙という作家を知る。
シュルレアリスムについて調べた。ひさしぶりの接触。しかしつねに芸術のありかたとしてわがかたわらにある。シュルレアリスムについて語るとき困ることは、シュルレアリスムの成功例、総決算といったものがおそらくまだないということだ。ドイツ・ロマン派だったらゲーテ、言語遊戯だったらジョイス、実存文学だったらカフカ・サルトルといったように、中心となる人や作品を並べることがしにくい分野なのだ。それがまた、この未完のプロジェクトを魅力的な山にしていることも、確かなのだが。逆説のかたちでいうと、シュルレアリスム運動の中にシュルレアリスムはない。
小説には隙があったほうがいい。なにかの余地があったほうがいい。
『2666』をひらく。
06/03
台風が来た。雨と風。
お昼はハヤシライスを食べた。
アイロンがけをした。
ニュースの軽いBGMが好きである。
facebookで海外から大量の友達リクエストがくる。アフリカや中東からが多い。かたっぱしから承認。世界中とつながっているような感覚に浸れるので最高だ。そのうち実際に会ったりして。
世界は情報の面でフラットになった。もう少しで富のうえでも変わるだろう。
アープラノートはずっと使っているが、さまざまな使い方ができる。つかう前と今では考え方も変わった。
紙のノートに考えをいろいろと書いている。
水を飲んだときと、自由に考えるときと、読むときと書くときは感じる感覚が似ている。
最近はプレゼンする機会が多い。
クラウドファンディングを宣伝した。
AIをめぐるニュースを耳にすると、なんだか途方もなくて笑ってしまう。
テクノロジーの進歩が文学に影響をおよぼしたらおもしろいが、下手をするとほとんど影響をおよぼさないかもしれない。
人類がパソコン・インターネットをつかわなくなる日は案外ちかいかもしれない。別の道具や方法が生まれれば、とってかわられる。パソコン・インターネットの恩恵を受けた最終のジェネレーションになるかもしれない。
だれもが便利な技術を扱えるわけではないのだから、ある技術一色に生活を染めることはないだろう。
なんにせよ、できれば本を書いてつくっておくのはおすすめで、よいことだ。
パソコンで出来なかったこと・インターネットで消えてしまったことがあまりにも多くて、IT時代の人間は貧しい文化だったと後世からいわれそうだ。しかしそれでも、この時代を生きた実感としては、なんとか楽しく豊かにやってきたことはたしかであり、それでいい。
忘却の時代。
偉い人たちほど知恵を出し合うべきだ。力による現状変更ではなく、首長どうしの話し合いや工夫でやっていくべきだろう。そういう時代が来れば、おもしろいしわくわくする。
はじめに勢いがあり、のちに弱まる。
『勉強の哲学』を読んでみようか。
発見をゴールと思わず、発展とすること。
06/02
出先で友人と偶然の再会。元気そうだった。
志のある人とはちょっと話しただけでおもしろい。その志をわけあたえてもらえる。
notebooklmでクラウドファンディング用の画像と動画を作った。おもしろい出来になった。
書籍化・出版の準備が進んでいる。
短期しかみていないひと、長期もみているひと、いろいろいる。
台風がくるらしい。
06/01
集まり会議。
おいしいものを食べた。
人の話を聞くのはいいもんだ。
コーヒーの粉をいただく。
試食をした。世の中にはさまざまなアイデアがある。
『広辞苑』を座右に置いている。
ひとつの世界となっているような長編小説が好きだ。
ライブハウス・ライブバーの近くに住んでみたい。
さいきんのネットの活動は、主にこの日記に集中している。
文庫本一冊とっても、とてつもない恩恵だ。文化の力だ。
現代において一冊の本を完読するとは、自分との契約の成立になるだろう。
ムージルの日記を読んでいる。かれは文学の思想原理ともいうべきものを考えていた。「美とは、なにかが愛されていることの表現以外のなにものでもない」p959。
理知的なものは今後社会にますます必要になってくるだろう。
日本文学には、もっと自然な文章を生み出す作家が必要だ。
いたましい事件がつづく。これが日本の戦争なのだろう。