自由から「適切な取引」へ including 3人のドライバーの話
140字改行おじさんを書いたころに書いた変な文章久住哲.icon
ちゅうい.icon 以下は、読まれることを想定していない乱れた文体で書かれてある。
2023/3/19に乱文を書く。
要約:行為に関する適切な取引というものを私たちは気にしてるんじゃないかな?
トップダウン
ただの自由ではない。理性的な自由であるという点が重要だ。
合理的責任
だが、どういった判断や行為が理性的であるのかについては、あらかじめすべて決まっているわけではない。しかし、それがどうなっているのかについて話し合うことで確定していくことはできるだろう。
十字路を右折する人の話をしよう。ある人が交差点の十字路を右折しようとして、車を停めているとしよう。対向車はどんどん来ている。ここで、対向車が来ているにも関わらず、車を前進させることはできる。そうしたところ、対向車が急ブレーキをかけて、止まった。止まったすきに、その人は右折することができる。これはひどい。交通マナー違反だ。こういう人に対して、助手席に乗っている人が呆れながら「自由すぎるだろ」とツッコむとしても、おかしくない。いっぽうで、弱気なドライバーが右折する場面を考えてみよう。その人は、明らかに対向車がまだまだ来ないときでも右折に踏み切れない。助手席の人が「いま行けたでしょ」と言うと、弱気なドライバーは「ぜんぜん対向車が来ないか、矢印信号が出るまでは怖くて右折できないんだよ」と言う。まあ、そういう人もいるだろう。こういう人は、右折のチャンスを逃す。しかし、いずれは右折できる。信号が赤に変われば、そのときに右折できるはずだから。だが、後ろの人を待たせてしまったりするだろう。もしもその人がドライバーでなければもう右折できたはずの人が右折できない、ということが起こる。
この弱気なドライバーは、「今が右折のときだ」「今は右折していい」というタイミングを自分で決めることができない。その人は、状況が車ゼロとなるか、矢印信号が出るかになるまで、右折するというオプションを選択できない。つまり、その人の行為は、ほとんど状況にのみ左右される。もちろん、普通のドライバーであっても、自由すぎるドライバーでないかぎり、状況には大きく左右される。だが、どこかの時点で、「今はいける」と自己発信の決定をする。
ここに自由の程度が現れている。自由すぎるドライバーは、自分が車を前に進めることで、対向車を止めてしまった。ドライバーは、常識的に適切なタイミングではない逸脱したタイミングで車を前に進めた。こういった行為は、より多く責任を問われる。こういう人に「どうして車を発進させたんだ?」と尋ねて、「早く右折したかったから!」という答えが返ってきた場合、尋ねた人が「こいつは自分勝手、自己中心的だな」と見なしてもおかしくない。自由すぎるドライバーは、「そのタイミングで行けそうだから行った」のではなく「そのタイミングで行きたいから行った」のである。すなわち、状況判断に従うというより自己の欲望に従っている。
こういったことも考えられる。自由すぎるドライバーが絶対的な王だとしよう。(王は運転しないだろうけど)王は特別な車に乗っており、誰が見てもその車が王のものだと知っているとしよう。そして、王の車は道路上で優先すべし!という指令が行き渡っているとしよう。さて、王が右折しようとしている。その国では、対向車は止まらなければならない。そこで、王はほとんど対向車を見ないで右折しようとする。対向車が急ブレーキをしたとき、王はこう言うかもしれない「急ブレーキだと?けしからん。もっと先からわしの車が見えているはずだから、減速すべきだっただろう。あいつを逮捕しておいてくれ」とかなんとか。こういう王は自己中心的かもしれないが、その国はそういう国なので、だからといって王が非難されることはない。(嫌われるかもしれないが)
いくつかの要素がある。状況、行為者、行為を見ている人、行為のタイミング、性格、ルールやマナー、危険
「行けそうだから行く」という点を取り上げる。これは、確実に安全だとはかぎらないが、許されるかもしれない行為の領域に関するものだ。ここでは判断力がものを言う。だが、「判断力」という言葉に訴えたところでしかたがない。
同じ話を共同プロジェクトのブラケティングでしてみよう。自由すぎる編集者は、気の向くままにありとあらゆるキモいブラケティングを繰り返す。「ちょっと、また1字でブラケティングして!そうすることで本当にリンクすべきワードをリンクできなくなるでしょ」と言われたりする。これは、対向車を止めてしまうようなことに該当する。
いっぽう、臆病な編集者は、そもそもブラケティングすることも難しい。ところで、その共同プロジェクトではルールとして、行に最低1つはブラケティングしましょうと言われれるとする。臆病な編集者は、なにかを書くたびに、他の人に「どこをブラケティングすればいいですかね?」と確認する。他の人が「こことか別なページと関係しそうでいいんじゃないかな?」と言ってあげる。そうしたら、臆病な編集者は「わかりました!そうします!」と素直にそれに従う。彼にとって、他の人の言葉が、矢印信号に該当する。
だが、私たちはほとんどの場合、彼らの中間に位置している。気の向くままに(しかもその気は常に荒れ狂っている)ブラケティングするわけでもなく、許可をもらったブラケティングしかしないわけでもなく、多少なりとも……程度の差はあれ……「どうすればブラケティングとして適切だろう」とか「ブラケティングするってこういうことだよな」とか、そういうブラケティングについての意識を持ちつつ、ブラケティング作業をする。(ブラケティングを一切しない人もいる。それはそれでいい。)そして、「このブラケティングはちょっと長いけど、こういうのもありだよな」とか「ふつうこれをブラケティングすることはないけど、自分がこれをすることで、ブラケティングの幅が広がるんじゃね?」とか、実験的な意図であったり、面白がることもある。これは、対向車が来ているし安全は確保されていそうだから右折して、できるだけ多くの後続の車も右折できるようにする、ということに該当する。
自由って良いよね、と言われる。だが、自由すぎるのは問題だ……。何が良いかといえば、適切なタイミングや適切なブラケティングを求めて自己判断しつつ行為することが良い、と、ここではとりあえず言っておく。これは、「人に迷惑をかけない範囲で自由」ということとはちがう。迷惑をかけながらでもやるべきことはあるだろう。ここでしたいことは、この中間領域に注意を向けてもらうことだ。この中間領域をそのまま「自由」と呼ぶわけにはいかない。だが、自由の程度に関係するものではある。
自由すぎるドライバーは「他の人は自分に合わせろ」という精神である。臆病なドライバーは「自分の安全のためなら後続の車が右折できなくてもしかたがない」という精神である。(申し訳ない……と思ってるかもしれないが)自由について考えるとき、この「後続のドライバー」の視点は欠けがちかも。……閑話休題。
人の行為自体が、またひとつの状況になる。自由すぎるドライバーが車を前に出すと、対向車からすれば、急停止すべき状況が発生したとみなされる。自由すぎるドライバーは自らの行為をつうじて、他の人にとっての「強い規範」を生じさせている。運転するなかで、「他の車に衝突してはいけない」という規範はかなり強い。もちろん、「対向車がぜんぜん来てるのに右折すべきじゃない」という規範だってそうとう強い。というか、これもまた「他の車にぶつかってはならない」という規範の一部だといも言える。自由すぎるドライバーは、自らは強い規範に反するとともに、他のドライバーには強い規範に従って激しい行為(急ブレーキ)をするよう強いている。
ここでは規範・行為についての交渉、取引がなされていると言うこともできるかもしれない。自由すぎるドライバーは、自らは強い違反をしながら、少し待てばできる右折を得ている。いっぽう対向車は、普通に走っていた(交通ルールを守っていた)にもかかわらず、あまりしたくない急ブレーキ(負の行為)を得ている。これは、適切な取引ではない。あきらかに不平等というか、不公平というか、釣り合っていない。
「行けそうだから行く」というタイミングを狙う車が一切ないほうが、対向車からしたら楽である。ぜんぜんぶつからないとはいえ、目の前を車が横断するほうが、まったく障害物がないよりも、気分が楽である。その点では、臆病なドライバーのほうが、対向車との取引においては、良いことをしていると思われるかもしれない。だが、臆病なドライバーは、その臆病さゆえに、後ろの車たちを普通よりも待たせてしまう。ここに不均衡が生じる。
この不均衡を是正することにこだわりすぎるとどうなるか。臆病さを責める人が出てくる。これはあまり良くない。だが、こういった不均衡をまったく無視するというのもどうか。これについてどうかと思うことは、なにも、効率重視者であることをかならずしも意味しない。適切な取引を求めていはいるが。
なぜ適切な取引が求められるか。それは結局のところ、複数人の人が悶着を脱して次の行為に移るためだ。140字改行おじさんは追放されて然るべきだっただろう。だが、改行おじさんにも人権はある。とはいえ、彼の自由すぎる振る舞いをそのまま受け入れるのもおかしい。そこで、「適切な取引」を求めての思考がはじまる。あかはなくん.iconは改行おじさんのニーズを満たしつつ、改行おじさんをその場から去らせるような方策を示したのだった。そうすることで、その場のメンバーが少し減ってしまった。改行おじさんさえ来なければ、自分たちは今までどおりのままでいれたのに。しかし、改行おじさんを強制的にDeleteしないと決めたならば、適切な取引を求めて交渉していく必要がある。そこで、「思考」が必要になる。もしも臆病であれば、改行おじさんのなすがままになる。もしも自分自身も自由すぎたならば、改行おじさんを即座にdeleteするかもしれない(これは風紀を守るという点ではまったく間違っていない。なので自由すぎるの例として相応しくないと言えるだろう。だが、王のドライバーの比喩と対応するところではある)。
内容が重要。車がぶつかればお互いに大きな損害をこうむる。怪我や命のリスクもあるし、車だって安くない。改行おじさんの改行は、読みにくくなったり、編集し直すのが面倒だったりする。
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