純粋理性批判入門書コース用カンペ 3章
(プレゼンテーションモードで閲覧を想定)
第3回 宇宙は無限か、有限か
「究極真理」の探究に終止符を打つ
純粋理性批判の後半のタスク
②人間がよりよく生きるには何が必要か(次回の内容)
第一のタスクの論点
①究極真理の問いは、なぜ答えが出ないのか?
②なぜ人間は、答えの出ない底なし沼にはまるのか?
理性はときに暴走する
感性は「直観」、悟性は「判断」、理性は「推論」
ex. 鉄粉に磁石を近づける
悟性「磁石が鉄粉を引き寄せた」
理性「見えないが、何らかの力が働いているに違いない」
ただし「理性」は暴走する
「磁力の原因は〇〇では? → 〇〇の原因は△△では? → △△の・・・・」
→ 「世界の一切を生み出す究極原因とは?」
「現象界」を超えた推論は、答えを出しようがない(物自体)
答えが出ない問いの代表
魂の不死、世界の始まりと終わり、神の存在
→カントは「純粋理性」を徹底的に「批判」することで、これらの問いを不可能なものとして葬り去ろうとした
私達の魂は死後も生き続けるか?
プラトンの『パイドン』、デカルト
カント「それ、誤謬推理やで」
「ある」とも「ない」とも言えない。
宇宙に始まりはあるのか?
カントは答えの出ない問いとして4つのアンチノミー(二律背反)を挙げた ①宇宙は無限か?有限か?
②物質を分解すると、これ以上分解できない究極要素に至れるか否か
③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか
④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か
宇宙は無限か?有限か?
カントは背理法によって証明(詳細は省く。本書p80を参照されたし)
答えの出ないアンチノミー
(宇宙の無限、有限の証明続き)
第二のアンチノミー(究極要素に至れるか否か)の証明
同様に(背理法?)証明。
第一・第二のアンチノミーとも、どちらの命題も正しくないことが証明された
なぜアンチノミーが生まれるのか
「世界全体」は客観的な対象ではないから。
「世界全体」は空間・時間を遠くに遡って究極の全体性として思い描かれたもの。
カントは「世界全体とは「理念」である。だから決して認識の対象として与えられることはない。そうではなく、決して到達され得ない永遠の目標として、認識に課せられたものとしてあるのだ」
世界全体のことを「統制的理念」(認識を導く理念)とも呼んでいる。
理性がもつ2つの「関心」
なぜヒトは正解のない「世界全体」を知りたがるのか?
理性には2つの「関心」があるから。
「完全性」を求めること。
探究心(「その前は?」「さらにその前は?」…)
人間に自由はあるのか?
第三のアンチノミー(人間に自由はあるか否か)の証明
正命題「自然の諸法則にしたがう原因性は、世界の諸現象がそこからことごとく導出されうる唯一の原因性ではない。さらに自由による原因性がそれらの諸現象を説明するために想定される必要がある」
反命題「いかなる自由もなく、世界におけるすべてのものはもっぱら自然の諸法則に従って生起する」
(証明の詳細は省く。本書のp90をどうぞ。)
カントは、どっちもまぁ成り立つよねという証明をした。(この点の詳しい解説は第4章で取り扱う)
(🤔私は反命題の証明がよくわからなかった)
神は存在するのか?
第四のアンチノミー(神は存在するか否か)
証明は本書でもだいぶ省かれた。
理性は「理念」を思い描く
ヒトの理性は暴走し、世界全体を想像するが、答えを出すことはできない。
理性は推論に推論を重ね、究極的に無条件なのもの(究極の真理)に至ろうとする性質をもつ。
「究極的に完全なもの」として理性が思い描くものを「理念(イデー)」と呼ぶ。
しかし(答えを出せなないからと言って)理念は無意味なものではない
カント「理念は『探究の目標』として人間に課せられたもの。究極真理は可能な限り探究していこう。」
理性が有効に発揮されるのは、道徳の領域である(→これは第4章の内容)
カントが考えた哲学再生の秘策
これまでの哲学の問を「考えても答えが出ない」とバッサリいった。
しかし
神が「いる・いない」は理論的に決定できないが、「なぜ人は神を求めるか」という問いに変換して復活させた
また、自由意志の「ある・なし」も理論的に決定できないが、道徳を語るために自由と必然の関係も再考する
第4章(道徳編)へつづく