日々これ企画
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毎日は企画の連続
毎日私たちは個人的な、あるいは共同的な企画に参加している。
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企画にはルールのようなものがある
例
200字で作文を書いてみよう……という企画趣旨は、〈200文字で文章を書くべし〉という規範を含んでいる。この規範を重んじる人は、自らの好き勝手な行動(この場合は執筆行為)を自己制御しようという気になるだろう。この場合、この人は文字数にたいして注意を払うようになる。例えば、文字をひとつひとつ数えたり、文字数が自動的に算出されるエディタに文章を書いたりする。そして、201文字だと「おしい」と思うし、300字だと「書きすぎた」と思う。この現象は何だろうか?「書きすぎた」というのは?文章に書きすぎなどあるだろうか?ましてや300字なんて少ない文量ではないか。しかし、その人が200字ぴったりの文章を書こうとしていると知ったならば、300字が書きすぎだというのは理解可能になる。 企画は制御された行動をもたらす
或る企画に自らは参加していない人にとって、それの企画趣旨は重要ではないが、その企画に参加している他者に感情移入することはできる 例
自らは200字作文企画に参加してはいないが、目の前でそれに参加している人が「202字か……あと2文字をどこで減らそう……いっそ全体的に書き直すか……」などと悩んでいるのを見て、その悩みを理解することはできる。したがって、自分が重要だと思わないことに他者がこだわっていて、かつその他者がそれにこだわる理由(企画趣旨)が分かっているときに、「なぜそれにこだわるのか私には分からないなあ。なぜなら私はそのような趣旨に賛同しないから」などと言っている人がいたら、その人は理解をしていないのではなく、なにかある企画を立てている。その企画では相手に対する無理解を口に出すことに意義が生じる……そのような企画に参与している。
毎日繰り返される入浴も企画である
入浴は、〈清潔感を保ってみよう!〉という企画のための行動である
私たちはなぜか身体の隅々まで洗う。これはなぜだろう?「身体の隅々まで洗う」という企画だからだ。企画の趣旨がそうなっている。そのような企画を立てているからこそ、〈洗い残し〉といった現象に気づくことができる。そのような企画がなければ、そもそも洗い残しは起こらない。あるいは、洗い残しというものは無限に起こりつづける。というのも、私たちの皮膚は非常に皺々だからだ。その全ての細かな襞のうちの全ての汚れを除き去ることができるだろうか?できるかもしれないけれど。
身体の右半分だけを洗う、という企画を立てることもできるだろう。これをすると、身体を洗うことでどんな変化が自分の身に起こっているのかを観察することができる。しかし、私はこれをしない。したくない。なぜなら、私はすでに〈毎日風呂に入り、毎日全身を洗う〉という企画を実施中だからだ。身体の左半分を洗い残すことは、この企画趣旨にもとる。
人は幸福追求という企画に参加している
理性とはある規則(規範)に従いつづけようとする意志である……と言うことができるだろう ジェンガで遊んでいるとき、今まさにジェンガを抜こうとしている相手の身体をくすぐって妨害しようとする人は、理性的ではないだろう。ただし、〈くすぐりジェンガ〉という企画に共に参与している場合は、話は別だ。もしもこういう企画があるとしたら、恥ずかしがって相手の身体をくすぐらないことが、かえって理性的ではないと言えるかもしれない。ただし、そうとも言い切れないところがある。というのも、彼あるいは彼女が〈他人の身体にむやみやたらと触らない〉という別な規範を普遍的なものと見なして、この特殊な遊びのうちでもそれを一貫させようとしている……という見方もできるからだ。この場合、彼あるいは彼女は、〈くすぐりジェンガ〉というふざけた(※私はこんな企画もいいと思うが)遊びの趣旨に惑わされず、常識的な規範を守り続けている理性的な人だと評価されてもおかしくはない。しかし他方で、「これを遊びと割り切れないとは、それまでに偶然的に自らに備わった習慣的な感情にとらわれている」という評価を受けることも考えられる。 「ルールを守る」はなぜ「守る」か?
ルールを守るというが、いったい何から守るのだろうか?ルールが何かから攻撃を受けているのだろうか?もしかすると、まさしく攻撃を受けているのかもしれない。〈ルールが攻撃を受ける〉とはどのような事態か?攻撃とは、対象に打撃を与え、ダメージを与え、対象が元の状態のままでいられないようにすることだと言える。例えば、敵の城門を攻撃して、〈城内への侵入を防ぐ〉というそれの機能を損なわさせるといったこと。ルールへの攻撃というものが仮にあるとしたら、それはルール違反のことであるだろうし、しかもそのルール違反は、それの結果ルールが失効してしまうような種類のものであるだろう。だが、〈ルールの失効〉とは何なのか。人がルール違反をするたびになにかルール違反ポイントのようなものが貯まって、そのポイント数が一定以上になれば、ルールは「プシュゥ〜」と煙を出して動かなくなるのだろうか。ルールの失効とは、誰もそのルールを「守ら」なくなることだ。これは〈ルールの権威が失われる〉ということだろうか。いや、端的に、人がそのルールを守らなくてもいいと思うようになることにほかならない。これは企画の崩壊、あるいは、そのルールを規範として含んでいた企画が、それをルールとして含まない別な企画に取って代わられることだ。攻撃が対象を元の状態のままであらさせないことだとしたら、守るということは、対象を元の状態のままに保持しようとすることだ。ルールを守るとは、ルールがその企画を支配しつづけるようにルールの権威を保持しようとすることだということになる。だが、ルールに意志があって、それが私たちを(私たちに命令などすることで)支配するわけではない。ルールを守る人は、あたかもその企画に感情移入する人であれば誰もがそれを慮って自己の解釈や行動を自己制御しなければならないかのように自らも振る舞い、かつ他者にもそのような振る舞いを求める。私たちは何もなければ好き勝手に行動できるはずだ(例えば、いきなり思い切り暴れて机に腕を叩きつけて自ら腕を骨折してもいいだろう)。しかし、たいてい自己制御をしている。この自己制御は何らかの企画趣旨(規範)を自らに適用することでなされる。そして、集団が共通の企画に参加することで、その企画趣旨は客観性を持ちはじめ、あたかもその規則が存在するかのように思い込む人も出てくる。というのも、まさしく企画に参与するということは、企画趣旨が存在し、私たちがその制約を受けなければならないかのように演ずることを意味するからだ。このとき私たちは企画に感情移入的に没入する。その企画に水を差したり、このゲームのしきたりを乱す人に対して、嫌な気分を感じるようになったり、そういう邪魔があると、なんだか気まずくなったりするようになる。そして、企画から外れた振る舞いをする人を無視したり、排除しようとしたりすることもある。
思想・哲学・文学・芸術の会に参加することも企画である
私が毎日入浴するようになったのは、「今日から毎日風呂に入るぞ!」とあるとき決心したからではない。どこかで誓いを立てたわけではない。
毎日の入浴は私が幼少期から躾けられ、私のなかで習慣になったものである。
しかし、入浴が習慣になるとは、放っておいても毎日風呂に入る自動制御プログラムが働くことではない。
毎日風呂に入る人は、風呂に入らなければ気持ちが悪い(居心地が悪い)と思うだろう。このような気分の変化は、〈自動的な行動〉とは関係のないものだ。
会話は企画への参加である
人と話すということは、そのつどの企画に参加するということ、あるいは、企画を立てるということだ
企画を立てて変なことをする