思考と会話とデライト
思考とは何か。
ちなみに、「〜とは何か」という問いは、良くない形の問いらしい。
よく言われること→何かを考えるときには、そのものの否定を考えてみると良いよ〜
了解した。
思考の否定(思考しないということ)
これは「浅慮」「軽率」「無思慮」「考えなし」などと呼ばれてきた。
例えば、自分の行為や発言がどんな帰結をもたらすのかを知らないことが、「軽率」と呼ばれてきた。
言い換えると、自分の言動が何を意味するかを弁えないことが「無思慮」である。
こういった軽率・無思慮などは、したがって、知識とも関わる。
無知ゆえに、自分の言動の意味が分からない、といったことがありえる。
「自分の言動の意味が分からない」ことがある
こういった意見には、ある前提がある。
自分の言動にどのような意味を持たせるかは自分だけで決めることができない、という前提。
話題転換。
責任逃れとして「そういう意味があるとは知らなかった」などと言うことがある。 「そういうことを言ったつもりではなかった」とか。
逆に言えば、色々なことを知っていればいるほど、責任をとる機会が増えるとも言えそうだ。 色々なことを知っていればいるほど「知っているのになぜ対処しなかった」と責められる機会が増えるだろう。
なので、聞こえなかったふりをする・知らなかったふりをする。
さらに逆に言えば、多くの責任を担う人間に情報は集まってくる。
責任をとるためには情報が必要である。いわば、状況を把握しておく責任というのが、責任の責任である。
思考とは基本的に、「もし〜ならば、〜。だから〜」の連鎖であり、行為の理由に関わる。
「もし〜ならば」を状況想定と呼ぼう。
この状況想定が疎かである場合、不手際がある。
「〜ならば、〜」を判断と呼ぼう。
「〜。だから〜」も判断である。
「もしこのまま大雨が降り続けたら、一階は浸水する。だから非常食は全て一階に置こう」という判断のうち、後半は愚かだ。だが、「もしこのまま大雨が振り続けたら」という状況想定はできているし、「〜たら、一階は浸水する」というリスクについての判断はできている。
無思慮な人をコミカルに描写するならば、彼は、雨が異様に降っていても、「雨が降ってるなあ」としか思わないし、そもそも雨に注意を向けない。「あ、雨降ってたんですね」とか言う。この量の雨がこのまま一定期間以上振り続けたら平生では起こらないようなことが起こり得る、という状況想定をしない。もしかしたら、自分がそんなことを考えたってしかたがないと思っているかもしれない。
「自分には関係ない」
これは一見思考と繋がりがないかにみえる発言だが、これは思考放棄の一種である。
逆に言うと、様々なことを「自分に関係がある」と見ることが、思考の引き受けとなってくる。
これは、更に言うと、他人のことも「自分に関係がある」と見るような態度につながってくる。
一応言っておくと、「思考できること」が人間の唯一の評価軸ではない。当たり前だ。
愚かであればダメなのか。そうではない。
合理性・賢明さ・適切な判断力……こういったものが、何が愚かで何が賢いかを決める基準を握ってきたし、今も握っているだろう。だが、それが唯一で普遍的な人間的基準であると考えるのは間違っている。
だから、私たちは人間が何であるかよく分かっていないはずだ。
ところで、これも「だから〜なはずだ」という合理的思考である。
たしかに合理性は横暴だが、合理的思考には自己抑制的な機能もある。
会話とデライトの話にはつながらなかった。