化野日記 第一版
葬儀屋(とその中の人)の日記(もっぱら思考ログ)です。
コメント等はご自由にどうぞ。
◎注意
このページには、気分屋 かつ 自嘲癖 かつ メンヘラ の葬儀屋の 侵入思考・潜考・煩悩 の片々が大量にふくまれている可能性があります。 ご気分の優れない方や影響を受けやすい方は、Chillい音楽に 珈琲をすすりながら ゆるりと眺めるくらいが丁度いいかと思います。
◎RP説
化野日記では「RP説」 なるものをときどき 取り入れております。
詳細は下記のノートの「RP説について」の項をお読みください。(気が向いたときに読むくらいで大丈夫です)
2024/05/18 Saturday
・久しぶりにアープラノートを開いた。
・二週間ぐらいの間には、楽しいことも、つらいこともあった。
・結局、心の中に深く刻まれるのはつらいことだけで、楽しかったことは過去の出来事のひとつにすぎないものになってしまう。
・インターネット上の発達障害診断を、信憑性に欠けることを承知でやってみた。その診断曰く、僕はASDの特性をもってる可能性が高いらしい。そうかもね。
・そういえば、結構前に短歌という創作活動をやめることにした。
・どんな決断も(結局)なかったことにする僕だけど、最低でも数年は短歌を詠まないつもりでいる。
・創作ロールを外しておこう。
2024/04/30 Tuesday - 2024/05/01 Wednesday
・二日間を通じて、アープラでの Mix&Gather について考えてたかな。
・なんとなく頭にあったアイデアを一度言語化してみた。
・やっぱり、葬儀屋(僕も)は「長期的に見る」という視点が抜け落ちてると思った。
・こんな書き方( ↑ )をしてると、僕が二重人格なんかと思われそうやな。
・もうちょい、ラフにいくことにするか。実際、書く前から「葬儀屋」と「中の人(僕)」の区別を意識していると、言語化している途中で抵抗をうける部分がある感じがする。
・最初から意識するものではないか。
King Gnu の Vinyl を聴いていたら、聴覚が冴えていたのか、Vinyl の 曲の奥の 沼のような泡のようなサウンド(多分 ベース)をいつもより 芯を食ったように聴くことができて、とても音楽を楽しめた。
ちょっとだけ、勉強に取り組めた。
やべ、もうゴールデンウィーク後半じゃん。
今更ながら、私のスクラップボックスのアカウントのユーザーネームの設定がミスっていることに気づいた。
ただ単純に編集するだけなら 問題なさそうだから、放置。
2024/04/29 Monday
code:歌会があった日
〇視点:7割「中の人」、3割「葬儀屋」
今日は、手癖で自嘲へと向かおうとする自分を抑えて、以前から考えていた「RP説」をひとまず言語化してみた。
正直、述べたい内容の4割程度しか言語として産み落とすことができなかった気がしている。まぁ、焦っても仕方ない。ゆっくり、言語化をしていこうと思う。
さて、ゴールデンウィークにもかかわらず、一日中私は何もすることができなかった。強いてしたことと言えば、テーブルの上で珈琲の入ったコップをひっくりかえして大惨事を引き起こしたこと、ヨビノリさんの「これから大学の勉強を始める君へ」という動画を見たこと(遅いのよ...)くらいかな。
そんな しょーもない一日を順調に進んでいたわけだけど、(完全に)突発で Discord本部の 歌会VC に参加した。
21時の創作カフェVC に人が集まっているところを見るまで、本当に参加をするつもりがなかった。(そもそも、短歌もつくってなかったしね。)
そこで 参加者たちの詠んだ短歌(自由詠)とその批評を聞いていたら、なんとなく久しぶりに短歌をつくれそうな感じがしてしまった。そのまま勢いに任せて、突貫工事で「春」の歌をつくった。(何故、歌会当日より前にやらないんだ......)
雨だまり 水死体が浮いている 校舎の桜も梅雨待たず死ぬ
僕が学校を体調不良で休んだ或る日は大雨が降った。翌日、校舎内をとぼとぼと歩きつつ 視線を下に向けたそこには、ちっちゃな水溜まりがあった。よくよく見てみると、そこには学校の桜の花びらが数枚 浮いていた。それはもう醜かった。哀れだった。生まれ 死んでゆく場所が違えば、同じ水でも「花筏」のように 死後も「美しさ」の一部として存在できたかものに。
残念ながら、彼らの亡骸をひろいあげたのは、硬いアスファルトとその上の汚い雨だまりだった。
二月の末に短歌を詠んで以来の久しぶりに短歌を詠むことができたがゆえに、その時は結構気分が晴れ晴れとしていた。
結局のところ、何も勉強しない日が 今日を含めて3日続いている。(学問人として生きていくしかないのに 何してんだろ)
日々に余裕がなくなるから忙しいのは大嫌いだが、強制的な忙しさから(一時的にでも)解放されると今度は何もすることができない。「忙しさ」に強制力が伴わないだけで、やることは大量にあるし、自由でもなんでもないんだけどね。
まぁ 今日という一日が なにもない「からっぽ」な一日として終わらなかったのは よかったことかもしれない。