仏教では何が輪廻すると考えられているのか
森岡正博は『生まれてこない方が良かったのか?──生命の哲学へ』の中で、「輪廻するのは五つの要素(五蘊)であり、けっして「我」という主体が輪廻するのではないとするのが、原始仏教の標準的な見解である」としている。
しかし、魚川祐司(ニー仏)『仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―』と書かれていることが少し異なる。
まず彼は明治生まれの著名な仏教学者木村泰賢による図式をそのまま引用して説明している。
code:衆生が輪廻する仕組み
A―A'―A''―A'''―An…anB―B'―B''―B'''―Bn…bnC―C'―C''―C'''―Cn…cnD……dnE…
このA、B、C、D、Eとあるのは、木村泰賢の用語で「五蘊所成の模型的生命」、ニー仏の用語で「認知のまとまり」や「経験我」にあたるもの。
つまりAさんは実際には縁生の五蘊の仮和合で、生死の間、常に変化していて固定的な実体は存在しないと考える。
Aさんはある時点(An)で死を迎え、Bへと転生する。Aさんの積み重ねてきた行為(業)の結果が潜勢力として働いて、Bになっても刹那ごとに変化をし続けている。つまり以下のことが言える。
それでは、「何」が輪廻をし続けているのか? それは仏教の立場からすれば、行為の作用とその結果、即ち業による現象の継起である。つまり、行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスが、ひたすら相続しているというのが、仏教で言うところの「輪廻」の実態なのであって、第二章でも引いた中部経典の文句に、「衆生とは業を自らのものとし、業の相続者であり、業を母胎とし、業を親族として、業を依りどころとするものである」と言われるのはそれゆえだ。  
だから、より厳密に言えば、「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、仏教の文脈からすれば、そもそもカテゴリーエラーの問いであるということになる。存在しているのは業による現象の継起だけなのであり、その過程・プロセスが「輪廻(廻り流れること)」と呼ばれているのであって、そこに「主体」であると言えるような、固定的な実体は含まれていないからだ。