ドリアン・グレイと三島由紀夫
平岡公威の人生
1、文学の才能があり虚弱な身体を持つ平岡公威くんは226の将校や戦時中に死んでいった文学仲間、特攻隊に理想の生き方/死に方を見る。以後、彼の仮面に隠された理想像になる。自分は何の因果か生き残る。敗戦。
2、文学の道へ。成功をおさめる。ニヒルな芸術至上主義者として一世を風靡する。だが、戦後のムードに馴染めず、さらに自分の切実な想いを込めた作品は評価されない。
3、戦争は忘れられていく。芸術も生の倦怠を癒してくれない。そこで身体を鍛えてみる。すると自分の中からムクムクかつての理想、死んだ者たちが浮かびあがってくる。彼らの精神?魂?亡霊?を追体験するような作品を書き始める。 4、鋼の肉体を手に入れるが、年もとっていく。私兵組織を作って若者を集める。すると青春の憧れだったような人たちが次々とやってくる。自分がかつて憧れた存在そのもののようになっていく。政治の不安定さに乗じてクーデターを起こそうとする。しかしなんとなく政情が落ち着いてしまう。
5、世に何事もなし。ノーベル賞はお預け。年齢も衰えていくぎりぎりだ。命を惜しまない精鋭を集める。大和魂を檄文に託して自衛隊に突入しクーデター未遂、自決。
比較してみる
ドリアン・グレイは、悪いことをするたびに良心(絵)が傷ついていく(ということだよね?)。美しい自分は変わらないが、絵を破壊すると老いてしまう。
三島由紀夫は、まず自分が美しくない(理想的な姿ではない)としている。ただ言葉や洞察はある。理想は軍人や詩人。軍人は(或る種のであれ)道徳に殉じる者。詩人は夭折の天分に恵まれた者。三島は詩人として若く死ぬことはできなかった。道徳と芸術。
なら、デカダンに、耽美に生きていこう。成功する。名声を得る。だが理解されたいところは理解されないし、空しい。するとどこか(虚無?深淵?記憶?)から軍人が、道徳が出てくる。三島由紀夫にとっての英雄(英霊)である。鍛えた身体はどんどん理想に近づいていく。仲間が集まる。
せっかく鍛えた身体は時間によって老い衰えていく。美しくいられる(美しく死ねる)時間がない。
そこで、絵、つまり芸術(小説などの作品)を否定するのではなく、かえって芸術のほうは完成させ、肉体のほうの時間を停める。すると芸術は作品として永遠に残り、肉体の死は(様々な解釈を呼び起こす)物語?伝説?記憶?として永遠に?残る。と願った。
感想
三島由紀夫の芸術?美学?生死?に魅入られようと魅入られまいと、三島由紀夫を忘却することは難しいと思う。
三島由紀夫は、自分の芸術から美しい記憶を抜き取って、自分をその美しい記憶の姿に変えてしまったように思える。
後に残ったのは平岡公威の抹消された芸術と、平岡公威の脱色された三島由紀夫という記憶だと思う。
私人・平岡公威は、近しい家族や友人の記憶には残るだろうけれども、それもやがて輪郭が薄れるのかもしれない。少なくとも私たち読者は知ることはない。
芸術の作者に想いをいたす人は、その理想像を作者に仮託する。三島由紀夫の場合はどうか。平岡公威が理想像を仮託した姿が三島由紀夫なので、平岡公威が作った芸術・三島由紀夫、そして三島由紀夫の作った芸術(文学作品)、その暗示するところを追っていけば、それら全てに影?光?を投げかけている戦争・軍人・道徳・詩人・夭折・(天皇、日本etc……)といったものに対峙することになる。関係ないが、バタイユが「私は戦争だ」といったという話を連想する。
例えば現代に一般的な価値や秩序を尊ぶ人にとって、何か不快?嫌悪?疑念?をもたらす異物のように捉えられるだろうし、一般的な価値や秩序を尊ばない人にとって、何かヒント?か、心酔対象?理想像??のように捉えられるだろう。しかし、時代によるかもしれない。交代しやすい流行というよりも、その時間を支配している時代によって解釈が変わるかもしれない。国や文化にもよるだろう。
オスカー・ワイルドの作り上げたドリアン・グレイは寓話(フィクション)だから、読むことができる。
平岡公威の作り上げた三島由紀夫は、寓話ではない。確かに記録と記憶に発生した現象だ。
三島由紀夫を考えるたび、こんなことがあっていいのか?という気が、けっこうする。まるでドン・キホーテそのものだ。しかも、平岡公威は狂人ではなかった。風車を巨人だと言っている人ではない。少し読んでみて、それを確かめてみたが、狂人ではない。肉体は虚弱ではあったが、狂人ではなかった。ただ、彼は自分の記憶を折りたたんで、完全?に自分をそれにしてしまった。パロディとして?パロディで人が死ねるものだろうか。そうだとして、誰もが笑えるだろうか。三島由紀夫という記憶を想い起こすたびに。しかも、ぼくたちが思い起こすのは三島由紀夫であって、平岡公威ではないのだ。