デライトの前後関係について
クイズ
例えば、川柳を作っているとして、
川柳一句一句をそれぞれひとつずつ輪郭にしているとする。 では、それら川柳を十句まとめて自選したとする。
そして、その自選をひとつの輪郭にする、と。
さて、その選は、それが含む一句一句の川柳の前景に置かれるか、後景に置かれるか? https://gyazo.com/fc883c94c9abaaf024a63b02eb4a73eb
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川柳というものと具体的な一句とだと、すぐにこの比喩で理解することができる。
だが、具体的な一句とその句を含む選とだと、どう考えればいいかすぐには分からない。
たしかに、その選は、個別の句を複数含むものである。それは箱に譬えられよう。
であれば、その選がそれぞれの句を「引き入れる」と考えたほうがよさそうに思われる。引き入れるとは、this輪郭の後景に置くというのとイコールだ。 よって、選自体は前景に置かれたほうが良さそうに思われるだろう。
私は違う考えを持っている。
私の考えはこうだ。
一句一句の川柳は、それが出現する場面を待っている。いわば出番を待っている。
選というのは、その舞台のひとつだ。
川柳は、選という舞台に登場する。
【その選の〜番目に置かれた句】として読み手の前に具体化される。
その句はかつて一度、川柳というものの具体化としてこの世に現れた。
その川柳が作られた時のことである。
そして、その句は再び、具体化される。【選の一部】として具体化される。
よって、選は後景に置かれるべきだ、というのが私の考えである。
なぜなら、選は具体化を二度重ねた結果この世に現れたものだからだ。
上でなされたのは、輪郭の具体度の比較という行為である。あなたは、輪郭の具体度の比較をしたことがあるだろうか?おそらく無いだろう。する必要性を感じたことがないだろう。 輪郭の具体度の比較の結果、ユーザーは輪括の判断をする。すなわち、AがBを引き入れるのか、それとも、AがBによって引き入れられるのか、それとも両方かを決定する。(そう、両方でもいい。) ただし、それが唯一の基準ではない。そもそも基準を定めるみたいなことを、デライト側はあまり歓迎していないようだ。
→ここらへんにソースのリンクを貼る
設計による破綻
これをして何が嬉しいのか?
それに答える前に、あらかじめ書いておくべきことがある。
『純粋理性批判』冒頭では、認識は経験からはじまると言われる。なるほど、じゃあ最も先立つものは経験なのか、と言えば、いやいや……とカントは言う。構造的に、経験に先立つ、経験を可能にするところの純粋直観や純粋悟性があるのだ……とカントは言う。それらの方こそがアプリオリなのである、と。 輪郭の具体度の比較によって知られるのは、この構造的順序だ。
輪括はこの「輪郭の具体度」を表現している、というのが今のところの私の解釈である。
繰り返すが、それは唯一の基準ではない。すなわち、それが「正しい」わけではない。
それが「今のところの私の解釈である」とは、
今のところ私はこの基準の有用性をテストしている最中だ、ということである。 何にとっての有用性か?
前景か後景、どちらか?という問いに答えることにとっての有用性である。