https://gyazo.com/f1200b0464fc5c630698cdd438986a37
多くの人は、この3枚のスクショだけを見せられても困惑する。
だが、「Gyazo」を知っており、かつ「Gyazo > 画像編集」に何らかの関心を持っている人にとってはすこし話が違ってくる。
「へ〜、Gyazoってそういうこともできたんだ」
と思うかもしれない。
この輪郭の一番上の「Gyazo > 画像編集 > 」という小文字。 これについて書く。
「Gyazo > 画像編集 > 」のような形の文字列はふつう「パンくずリスト」と呼ばれ、WebサイトやWindowsのエクスプローラーなどでよく見るものだ。 これはふつう、ファイルやフォルダの位置を示すものとして使われる。例えば、AというディレクトリにBというExcelのファイルが入っているとしたら、それは「A > B.xlsx」と表示される。 これと同じことを考えれば、上のスクショは、
「Gyazo」というディレクトリに「画像編集」というディレクトリが入っており、このディレクトリのなかに上のスクショ3枚が入っている様子を表現したもののようにも見えてくる。
だが、そう考えてしまうと、階層構造という発想に縛りつけられてしまうだろう。 むしろ、デライトの「パンくず記法」を承前として受け止めてみる。承前は一般的には、ある文章が前の文章の続きであるということを示す機能を担っている。ここでの意味はやや異なる。 承前を、「ここで書かれていることを理解するための前段階の説明は済んでいることとする」といった意味だとしてみる。
すなわち、上のスクショの例で言うと、
「Gyazoとは何かについてはご承知かと思います。また、Gyazoで画像編集ができるということもご承知のはずです。ところで、この画像編集について、あなたが知らないであろう情報があるのですが……」
といった意味だとしてみる。
「ここで書かれていることを理解するための前段階の説明」に、「Gyazo」や「Gyazo > 画像編集」というシンプルな名前をつける。ここで読者を選別する。
だが、Gyazoを知らない人がこの輪郭から弾き飛ばされるわけではない。その人は
「画像のサイズを変更したいんだよなあ」
と思っているのかもしれない。そのための何らかの方法を探しているのかもしれない。
そんななか、この輪郭を見れば、
「なにかを使って画像サイズ変更できるのか。そのための道具は『Gyazo』というのか」
という情報が得られる。
そこで、
「まずはGyazoとやらを知らなきゃな」
と思ったならば、パンくずリストの{Gyazo}をクリック。
輪郭の書き手が読み手に親切ならば、そこに説明が書いてあるだろう。
このことを考えると、
Gyazo > 画像編集 >
というパンくずリストとは別に
画像編集 > サイズ変更 > Gyazo >
というパンくずリストもあると分かるだろう。
すなわち、「画像編集ってものがあるということについては分かる。その編集のうちでサイズ変更っていうものがあることも知っている。だが、どうすればサイズ変更できるのか……」
と悩みうる人はいる、ということだ。
これらにはすべて知が関わっている。
ここでの「知」は、単に知っているというだけではなく、関心を持ちうるという意味もある。
画像編集みたいなことがあると情報は知っているが、それに全く関心がない人は、絶対に「サイズ変更ってどうやるんだろう」と悩むことがない。もしもそれについて悩むことがあるとすれば、その人は絶対に画像編集になんらかの関心を抱いている。
ここでの知は、悩みうるということをも意味する。
ここでの関心とは、対象が自分にも関わってきうるという意識を意味する、と言ってもいいだろう。すなわち、自分がそれに対して何かをしなければならないと感じること。 このことは、全く受動的に起こらなければならないわけでもないし、激しく起こらなければならないわけでもない。漠然と、しかし能動的に、「なんか画像のサイズちょっと小さくできればいいよなあ」と思うことも「対象が自分に関わってくる」ということに該当する。
悩むとは、自分にも関わってくるものに対してうまくやれるかどうか分からないということだ。