ツァラトゥストラが山を降りた謎
2024/10/21
オプチャでニヒリズムの話からニーチェの話になった。それで、結局、ニーチェが嫌悪した同情こそ最も人間にとって重要な道徳的価値なんじゃないかみたいなことを書いたら、「ツァラトゥストラがわざわざ山を下りて街に行ったのも、民衆への憐憫・同情・期待さまざまあったよね。ニーチェはとても同情深いと思った」というような書き込みがあって気になった。 確かにツァラトゥストラは人々への憐憫や憐れみ等の同情に類似する感情があったからこそ、山を下りて説教をしたんじゃないだろうか。
だとしたら、『道徳の系譜』でもツァラトゥストラが超人という設定っぽいことが書いているから、ニーチェの思想における矛盾なのかもしれない。 この未来の人間、この者はこれまでの理想からわたしたちを救済してくれるだろう。しかしそれだけではなく、わたしたちをこれまでの理想そのものから生まれざるをえなかったものから、すなわち大いなる吐き気と、虚無への意志と、ニヒリズムから、救済してくれるのである。こうして正午の鐘が、大いなる決定の鐘が鳴り響き、これが意志をふたたび自由にしてくれ、大地にはその目標をとりもどさせ、人間にはその希望をとりもどさせるのだ。この反キリスト者、反ニヒリスト、神と虚無を克服する者──この者はいつか訪れざるをえないのだ……。 二五 ツァラトゥストラへ
──しかしわたしはここで何を語ろうとしているのか? もう十分だ! 十分なのだ! ここでわたしがなすべきことはただ一つ、すなわち沈黙することだ。口を開けば、わたしよりも若い者、「より未来なる者」、より強い者だけに許されていることに、手出しをすることになるだろう。──ツァラトゥストラだけに、神なき者だけに許されていることに……。
と思ってkindleで読み直してみると、「没落」という気になるワードを見つけた。 「……(中略)……見よ。わたしもみずからの知恵に飽きた。あまりにも夥しく蜜をあつめた蜜蜂のように。わたしは手を必要とする、わたしの知恵にむかってさしのべられるあまたの手を。……(中略)……
贈りたい。分け与えたい。世の知者たちが再びおのれの無知に、貧者たちがふたたびおのれの豊かさに、気づいてよろこぶに至るまで。
そのためなら、わたしは低い所へとくだっていかねばならない。君も暮れ方になれば海の彼方に沈み、昏い下界にも光をもたらしているように。君よ、豪奢なまでにゆたかな星よ。
わたしも、君のようにしなくてはならない。わたしが下っていこうとする人々の言い方を借りれば、没落せねばならない。……(中略)……
見よ。この杯はふたたび空になろうとしている。ツァラトゥストラが、ふたたび人間になろうとしている」。
──こうして、ツァラトゥストラの没落は始まった。
ということは、ツァラトゥストラは、超人という高いところからあえて人間と同レベルの低いところへ没落し、人々へ説教しに行ったことになるのだろうか。 しかし「贈りたい。分け与えたい。」と思ったのはなぜか。なぜ没落しようと思ったのか。「みずからの知恵に飽きた」からなのか。
でもやっぱり同情とかそれに類似する感情があったからこそ山を下ったんじゃないのかという気がする。とにかく結構ニーチェ思想の謎の一つなのかもしれない。
ツァラトゥストラは、「最も醜い人間」(同名の章にでてくる)に痛烈な同情を覚え、卒倒してるで。ツァラトゥストラといえども、不意の強力な同情に襲われることがあるんや。最も醜い人間?誰やそれは?なにをした人?こいつは神を殺したヤツや。