『歎異抄』を世に広めた人達
『歎異抄』は元々、一般の人々だけでなく宗門の人達にすら知られていなかった。
『歎異抄』の作者を親鸞の孫である如信に帰す説が有力だったが、徳川時代の僧侶、妙音院了祥によって歎異抄の作者=唯円が提唱され、大正時代のはじめに多くの学者たちによってそれが通説であると認められるようになった。
梅原猛『歎異抄』によると、「この本を一般の人達に知らしめることに尽力したのは清沢満之及びその門弟の力による」としている。
『歎異抄』という本が、はじめて、一般の人に知られるようになったのは、清沢満之、及びその門弟の力によるのである。精神の人、清沢満之は、エピクテートスの『語録』と共に、『歎異抄』を愛読し、真宗改革運動にのり出したが、彼は若死し、彼の精神は彼の死後、彼の弟子たちによって、継承された。暁烏敏、佐々木月樵、曾我量深、金子大栄などが清沢門下の俊英であるが、彼等は、ほとんどすべて、『歎異抄』を称揚し、『歎異抄』と共に親鸞を語り、『歎異抄』と共に人生を生きた。彼等の熱と涙によって、『歎異抄』は日本人にあまねく知られたが、こうした思想の影響の下に書かれた倉田百三の戯曲『出家とその弟子』は一層『歎異抄』と親鸞を新しく日本人に知らしめることとなった。
千葉俊二『谷崎潤一郎 性欲と文学』にも『歎異抄』の話が記載されており、そこでは「 明治以降、『歎異抄』の存在を一般に知らせたのは清沢満之と、清沢に師事した暁烏敏である。ことに暁烏敏は二十一歳で『歎異抄』に出会い、生涯にわたって『歎異抄』を自己の信仰の柱として説きつづけ、『歎異抄』の存在を世に知らしめた功績は大きい。」としている。
また、暁烏敏にとって人生の大きな問題の一つに「性欲の問題」があり、彼の青年期の苦悩と煩悶から『歎異抄』が発見されたとも書かれている。
谷崎はクラフト・エビングに出会うことで、みずからの性癖が普遍的なもので、必ずしも自分ひとりの特殊なものでないことを知り、藝術世界にそれを解放する道を選んだ。暁烏の方は『歎異抄』との出会いをとおして、自己のうちに抱える悪業や穢れを見すえ、宗教的な救済の道を求めてゆく。
『谷崎潤一郎 性欲と文学』