「神の存在の存在論的証明が不可能であることについて」メモ(イ)
p277あたりから
どうも。「付け焼きカンティアン」です。
どうやら、ここは、神さまの存在を論証によって証明できるか?という話のようです。
……私が読んだ限りでは、
「絶対的に必然的な存在者」は、単なる「理念」(純粋理性概念)です。「理性」は理念を必要としますけれども、そうだからといって、理念の「客観的実在性」は、証明されません。
たしかに、理性は或る「完全性」を示しますが、到達不可能でありますし、「知性」をより広い対象へ向かって拡張するのではなく、知性を制限します。
ふーむ、それにしてもなんだか変です。世界をみわたすと、神さまがいるんじゃないかと推理するのはその通りで望ましいですけれども、そうやって推理する「知性の条件」が、道理にあわない。
ふーむ。
(?)ちょっとお待ちください。
(カ)どなたですか?
(付け焼きライプニッツァン)です。
(カ)ああ、つい最近、ライプニッツの哲学を学び始められた方ですね。
(ラ)はい。どうぞよろしく。……挨拶もほどほどに。今しがた、あなたの独り言をきいてしまったのですが……
(カ)おお、これはお恥ずかしい。
(ラ)私の今読んでいる、『形而上学叙説』は、まさに神さまについての話から語りだされているんです。 (カ)ほうほう。それはいったいどのようなお話しなんですか?
(ラ)えっへん。p69...「『神は絶対的に完全な存在である』という言葉は、我々が有する神の最も世に行われ最も意味のある概念を、なかなかよく言い表している。しかし」
(カ)ちょ、ちょっと待ってください。
(ラ)はい?
(カ)ええと、……うーん(カントを読みだす)
(ラ)なにか質問があれば、なんでも言ってください。
(カ)ふーむ、「我々が有する」、とはなんですか?
(ラ)え? うーむ、どうでしょう。まず、「神」とは、先ほどあなたが独りおっしゃっていた、「絶対的に必然的な存在者」ですよね?……おそらくは。
(カ)はい。……さしあたり、それで矛盾はないように思います。もちろん、あとあと矛盾がでてきたら、また検討しまおす必要がありますが。
(ラ)