「正解は人それぞれだよね」
相川計.icon
この言葉に断絶を感じないこと。むしろ具体的諸可能性を開く天啓ですらありうる。
啓蒙=理性による正解への接近可能性を認め、寛容=他者の接近した正解への敬意を持つ。 端的にはイスラム的理性=別の理性の光がありうることを認めること、それは西洋-キリスト教社会においてはじめ侵略的な狂気として認識されるだろう。 脱魔術化は実際は「魔術の周縁への追放」であった。さながら核廃棄物のごとく、われわれとは無縁な――「第三世界」に魔術を追放した。 魔術が理性の残余概念として幽霊のようにくすぶり続けた結果が、2001年であった。それ以降のアメリカの「テロとの戦い」は、暗い魔を明るい理性によっていかに駆逐するかの戦いであった。しかし実際は、強く照らせば照らすほど、理性の背後は暗く沈んだ。魔なるものの理性へのにじり寄り。 この光と闇の戦いは、生存権をめぐる争いとして極限的に表出する。
西洋の理性も、魔術を用いる人々も、黒きものが即ち死であると、おそらくは誤解している。
薄闇=オイコスそれ自体の温度を肯定し、ポリス的な光を和らげる場所、安らげる場所を確保すること。 暗闇における手触りとしての正解を認めること、――反視覚的な、「見えすぎない」世界の構築。