「有馬記念から見る競馬場の【劇場性】とリアル・ヴァーチャルの娯楽について」
現代のネット時代において、わざわざ現地に出向いて娯楽を楽しむ行為は、必ずしも重要ではないと考えられることが多い。家にいながらでも映画や音楽など、さまざまな娯楽を楽しむことができる。いわば、それはヴァーチャルな娯楽と言えるだろう。
しかし、年の瀬のこのレース、有馬記念は、それとは異なる特別な存在である。毎年のように数万人が中山競馬場というリアルの場に足を運ぶ。WINSなどの場外馬券売り場にも人が訪れる。もちろん、馬券はネットで購入できる時代であるから、馬に賭けるだけなら自宅で事足りる。それでも中山競馬場には大歓声が響き渡る。この現象は、競馬場が持つ「劇場性」に起因するのではないだろうか。
『哲学者がみた日本競馬』(檜垣立哉・教育評論社)では、「競馬場は一面では祝祭的な空間であり、劇場的な場所でもある」と述べられている。この本の主張をまとめると、競馬場はもともと馬券を買うための場として存在していたが、コロナ禍を経て、人々が訪れなくてもネット購入でJRAの売上に大きな損害は生じなかった。この経験は、競馬場が今後どのような役割を果たすべきかを問いかけていると言えるだろう。
思えば、コロナ禍は我々の生活を一変させた。ネットでほとんどのことが完結し、離れていても同じ場所にいるかのように感じられるようになった。娯楽もまた、「ヴァーチャルで十分」という方向に大きく舵を切ったと言える。(少し話が逸れるが、ヴァーチャル娯楽の代表例であるVTuberが流行したのも、コロナ禍の影響が大きいように感じる。)
そうした状況下でも、多くの人々が競馬場に足を運び続ける。それは競馬場が「劇場」であり、有馬記念のようなレースが「祝祭」であるからに他ならない。ヴァーチャルではなくリアルの場で、多くの人々と同じレースを目撃することで得られる感情の共感や、その場で「コトが起きている」というライブ感。それらが我々に「リアルに生きている」という感覚を呼び起こすのだ。劇場としての競馬場は、他のプラットフォームにも劣らない魅力を持っている。
祝祭たるレースは、自然に行われる年中行事を意識させる。人が年中行事を行う理由は、宗教的な意味合いに留まらず、日常からの一時的な脱出や、季節を感じる手段でもある。それがレースという形で実現されるのだ。
現代のヴァーチャル娯楽がもたらす感覚は、テクストやサウンドなどの人工的な視聴効果に限られる。一方、競馬場では、冬の寒さや、おっさんの怒号、大歓声に揺れる空気、あたり一面に張り詰める緊張感といった、リアルでしか感じられない要素が満ちている。
ヴァーチャルとリアルのどちらが優れているかに優劣はない。しかし、ほとんどの娯楽がヴァーチャルで完結する現代において、リアルを体験してみるのも悪くない選択肢ではないだろうか。