アフォーダンス
「環境にある行為の可能性」
一般的に、人間の「あることができる」という能力は、自分自身が持つ力だと思ってしまいがちだろう。しかしアフォーダンスの考え方は、さまざまな行為が可能であること(能力)とは、自身に内在する力だけでなく、環境があって初めて可能になり、人間を含む動物の知性を記述する上では、主体となる動物だけで語ることができず、環境と切り離せないというモノだ。
アフォーダンスの例を思い出してみるarmtic.icon
スマホのインターフェイスで言うと、「ボタンの押せそう感、さわれそう感」
ScrollViewの要素をあえて見切れさせて、「スクロールできそう感」を出す
これらはシグニファイヤの方かもしれない??
アーティスト、デザイナー、ミュージシャン、書道家、ダンサー、華道家、それらの名はその表現媒体によってカテゴリー化されている。しかしそのものをなしている感受性を、環境の中にある法則として定義したのが「アフォーダンス」なのである。つまりアフォーダンスは人間が知っているのに気づいていいない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったと言う事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見出せるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能でもあった。彼らには特殊な才能が備わっていて、見えているものは秘密だった。また、そのセンサーがどのようにそれを感受したかと言う機能をアーティスト自身は解明できなかった。また、そうしたいとも思わなかったのかもしれない。アフォーダンスの研究、いやギブソンの興味はその既知をアートとして表現するのではなく人間と環境の関係性を機能として解明し、実証する方向に向いたのではないかと思えてならない。通常見出せないリアリティが見えたのかもしれない。