而立を迎えたので改めてコンセプトアルバム『而立 〜さよなら20代〜』を聴いた
2024-05-18:まだまだ加筆したいがいったん投下
そのため、kaede.orgさんのboothでもう一回買ってジャケット・歌詞のPDFを手に入れる。いますぐ見たいから。
全体のレベルが極めて高く、およそ1,000円で買えていいクオリティではない、と筆者は思っている。ぜひ買って聴いてみてほしい。
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『而立 〜さよなら20代〜』は2009年の企画である。1979-80年生まれの同人音楽作家が集まって、而立を記念して作成したコンセプトアルバムだ。
企画ページ。Flash依存であることに当時を感じる。
もう時系列にまつわる記憶が曖昧になってきているのだが、筆者がアルバム『而立』を認知したのは発表の2年後、2011年である。
当時の自分は確か高校生で、anNinaからinazawaさんを知り、『Chords \ bermei.inazawa collection』に衝撃を受け、そのまま貪るように旧譜を集め、聴き続けていた。その過程でこの企画を知り、同時に参加者の方々も認識することとなったのである。
(余談。『worldlink op.1』を出された回のM3(たぶん2016春)でinazawaさんと初めて対面した。「新譜一枚お願いします」に対して、笑顔で「ありがとうございます」と仰りながら手渡して頂いたのを、いまでも鮮明に覚えている。)
さて、『而立』に戻ろう。コンセプトのシンプルさとその内奥の深みに感服する反面、当時10代の自分にとって、このCDにあらわれた抒情は「想像するほかない未来」であって、より直截的にいえばどこか他人事であった。
けれども、歳月の経過にしたがって己を見直し、内省あるいは開き直りに身を置くという感覚には共感できた。そのためか、折に触れて聴いてきて、今日ではもはや思い出深い一作となっている。
そして、30歳になったその日に必ず聴こう、と決めていた。
以下では、曲ごとに思いつくことを思いつくままに書き連ねてゆく。作品性質上、詞への言及が多くなる。
Tr.1 卒業生入場 / さよなら20代委員会
Auld Lang Syneのメロディ・コードを演奏するピアノソロに合わせて、電車・雑踏の環境音が流れる。言うまでもない気がするが、意識されているのは卒業歌としての唱歌「蛍の光」のコンテキストだ。
電車・雑踏の音は会場へ向かう足取り。
そして、拍手が鳴り響くことで、入場の完了が告知される。
Tr.2 あゆみ / 作詞:茶太、作編曲:bermei.inazawa、ボーカル:茶太
童謡を思わせる編曲・曲想に、率直で少年的な口ぶりの詞。途中からinazawaさんも歌う。
30代になった少年/少女が、その現在地点から見える風景や思考を、かつて少年だった自分にもわかる言葉で表現する。
そんな歌だ。
先を往く人
その背中を見てきたけど
今は僕たちも ほら 誰かの前を歩いてる
優しく伸びやかにはじまり、祝祭的な盛り上がりをみせ、侘しく切なげながらもあたたかくおわる。
曲想そのものが人生というスケールを厳かに表現しつつ、難解さを孕みながらもその一方で、老若男女誰もが口ずさめるフレーズを印象付けている。
童謡詩曲好きとしての自分も、大いに惹かれた。
Tr.3 farewell / 作詞:interface、作編曲:ESTi、ボーカル:茶太
無性的な印象のある標準的な現代文語で、感傷を乗せた叙景描写と決然とした別れの言葉とが混ざり合う詞。とりわけ、音韻感覚が凄まじい。
サビのボーカルは直前の曲とは対照的で、パワー寄り。茶太さんの歌唱の中でも特に力強いものとして認識できる。
ESTiさんが作り上げたきらびやかな曲想に浸るのが、ひたすらに心地良い。
「さらば悲しき日々よ」
「さらば楽しき日々よ」
「さらば若き日々よ」
「さらば愛しき日々よ」
Tr.4 レベル30 / 作詞:大嶋啓之・interface、作編曲:大嶋啓之、ボーカル:茶太
詞は共作となっている。大嶋さんがコンセプトとアーキタイプを作り、interfaceさんが作詞表現としての精緻化を行って仕上げたのだろうか。
「10代に比してみれば心身が衰えてきたことはいよいよ否定できないし、己が身の程も知れていて、それでいてまだまだ不安なこともある。けれど、モヤモヤを振り切って、自分のペースで前を向いて気ままに走ってゆこう」という曲だと捉えている。
「ヨーイドン!はきこえているのに」の箇所は流石。どうにも上手く走り出せずもたつくさまをリズムのもたりで表現しているが、歌の巧さか崩し方の妙か、曲として成立している。
Tr.5 anesthesia / 作詞:interface、作編曲:zts、ボーカル:茶太
後年のinterfaceさんの作詞に対しても、多大な影響や課題意識をもたらしている一曲である。
「ここではないどこか」と「いま・ここ」の重ね合わせとすれ違い、認識相としての時間、痛みの発生と消失。
グレースケールの叙景は、現実性の提示。
忘れたもの、捉えたもの、みえないものは、いま・ここに存在し得た(が常に既に存在しない)価値の提示。
以下は、筆者が歌詞の内容を再解釈して書き出した文章だ。
ーーー
抗拒し得ない時の流れが、可能性を奪い去る。
主体は摩耗し、苦しみにあえぐ。
簒奪者は他ならない自分で、きっと取り戻せない価値を惜しむ。
ここに痛みが存在する。
日常への埋没が、やがて意欲することの熱を奪い去る。
主体は摩耗し、焦慮する。
簒奪者は他ならない自分で、いつかみた価値を作ろうとして窒息する。
それでもまだ痛むことができる。
「麻酔のような空白」が、いつのまにか痛みを奪い去る。
主体は摩耗し、そしてそれに気づかない。
簒奪者は他ならない自分で、もう取り戻せないことを知っている。
もはや痛みは感覚され得ない。
ーーーー
曲のほとんどで鳴っているベースシンセは8分で刻み続け、曲の進行を強制する。
テンション混ざりの上モノが心地良い浮遊感を与えるが、その瞬間既に、麻酔は全身を巡っている。
総じて、ztsさんの曲作り・音色選びが、「急き立てられる感覚」を再現せしめている。
Tr. 6 エールの交換 / 作詞:k-shi、作編曲:k-shi、ボーカル:茶太
あの頃の自分=悩めるキミと、いまの自分=迷えるボクとの対話が回顧の歩を進め、自分同士のエールの交換に至るという詞展開。お互い頑張れよ、と。過去の自分を単に反省するのではなく、認め合い応援し合うことで相互受容するという選択からは、実直で内省的な成熟の仕方を感じる。
「夢みたいな人生さ」で紋切り型と思わせておいて、対句的に「嘘みたいなエッセイさ」のパンチラインでかっさらう冒頭が好き。
イントロ・サビで鳴るチャイム音の上行シーケンスが、回顧の動きそれ自体を表現しているように思える。動静・加減の緻密な調整が行われた編曲が茶太さんの独白的な歌いぶりを支えていて、詞を際立たせている。
Tr. 7 ライフパレード / 作詞:mewlist、作編曲:mewlist、ボーカル:茶太
先に散文があって、それを断片化しながら、詩としての解釈余地、空白を作る。そのような作詞手順な気がしている。省略美だ。とりわけ「夢にはぐれたものって言わないで」「いま守るものが自分じゃなくなって強さを得る」に心を持っていかれた。そうだよな。うん、そうだ。
ダイナミックなスネアワークを中心としたドラムの鳴り、pluck的なアタック感のあるsin系シンセ音色シーケンスが空間の果てしない広がりを感じさせる。あたたかな内的宇宙。
クレジット上の表記はない(ひとつのインストゥルメントとして捉えている姿勢か)が、mewlistさんご自身のコーラスも聴きどころだ。
締めに相応しい壮大さ。
【総括】
上手くできるようになったこと、まだまだ下手なこと。追い立ててくる過去、置き去りにした昔日。どうしているのかもわからない旧友、いま言葉を交わしている人々。
種々のアンビバレンツの上につま先立ちしながら何とか平衡を保とうとする、30代の感覚に突入できた。そんな気がしている。
次、つまり2034-05-18には、『不惑 〜さよなら30代〜』を聴きたい。
もし、もし。2029年に『知天命 〜さよなら40代〜』を手に取ることができたら、最高だ。