批評と理論について、あるいは如何にして批評を書くか
これから語ろうとしていることは以下だ。現段階で以下の箇条書きに同意できている人間にとって、本稿は退屈なものとなるかもしれない。
批評の目的は、テクスト・作品あるいは社会ないし世界、押し並べて対象物についての新奇な認識の構成である
〇〇理論の単なる適用を自己目的化するような風潮には辟易している
最近、映画批評本で臆面もなく(実質的に)そう言ってしまっているものと遭遇してしまったのもあり……
大前提として、十分なテクスト内在的読解や、基本的事実の整理があってこそ、初めて理論との対照に価値が生まれる
自己の認識論的ポジションに留保を置かずに下す評価は、何かの代弁行為でしかない
こうも言い直せる。つまり、「テクストそのものへ向かえ」とまでは主張しない。真に内在的な読解はあり得るか、あり得るとすればそれはどのようなものか、という問いも、批評理論における本質的なテーマのひとつだろうが、本稿の課題ではない。また、外在的読解を否定する意図でもない。ここでは単に「権威主義的・衒学的な言辞を生成するための装置として理論を悪用すること」を批判する。
## 理論と批評
ポストコロニアル理論・マルクス主義理論・ジェンダー理論・精神分析理論(フロイト・ユング・ラカン等)……どの理論でも言えることだが、その理論を適用することそれ自体を目的として行われた批評は、はっきり言って読む価値が少ない。そのような批評の生み出す価値が、「対象物を通して当該理論の枠組みや主張を再話・代弁する」ことに尽きてしまうからだ。批評家の想定している紋切り型とはまた別の紋切り型を語っているだけ、とも言い換えられる。
そして、もし筆者のこの認識が正当なものであるならば、もう一つ主張できることがある。
「であれば、感想の方がマシだ」
そう。理論からの自動導出でしかないのっぺらぼうの語りよりも、ある人物の固有性と結びついた感想の方がよほど読む価値のあるテクスト足り得るのではないか、という問い直しである。感想は、ある人物の価値観を示すという点でどうあっても新しい知識であるし、その固有の体験から語られる言葉が、暗に、あるいは無意識的に対象物への解釈の幅を押し広げる示唆を含むこともあるだろう。
もちろん、感想には感想で、ほとんど何も言っていないに等しいものが存在する(実態としてはむしろ大半がそうしたものである)ことは承知の上だ。
話を戻そう。それでも筆者は「理論を活用した批評」全体を否定はしない。むしろ、そのポテンシャルに対しては一定の理解を置いているつもりだ。さて、もしそうであるのならば、批評はどうあるべきだと言うのか。
それは、上述のような手つきではなく、作品や社会(世界)についての新奇な解釈・発見を得るための媒介項として理論を活用すること、だ。そして、対象物の方がむしろ理論に更新を促すような関係の方が望ましい。
少し補足を行う。ラカン派の理論を理解するためには作品・社会批評での実用が有効である、というようなことをかつてジジェクが言っていたような気がするが、もちろんそうした訓練としての批評行為はあっていい。誰もが最初からしっかりした手順で物を書けるわけでもないし、理論を一度読んだだけで完全に理解できるわけでもない(筆者自身もまだその過程にあるはずだ)わけで、練習することで進もうとする態度はポジティヴで尊い物だと思う。
それが良くも悪くも「野球の上達のために素振りをする」のと似たような行為であるとさえ自覚していれば、何も落ち度はない。
繰り返しを厭わずまとめておこう。ここで主張したいのは、理論の単なる適用を目的とした批評行為が
①新奇な作品解釈・発見につながりにくい
②単なる権威主義的言説になりやすい
③よって、対象物と理論との両方を既に知っている人間からみて、予想の範疇に収まる言説になりやすい
という問題を孕んでしまうはずだ、ということである。
もっとシンプルに言っておこう。本来、我々は理論を語りたいのではなく、対象物を語りたいはずだろう。そうでなく、理論の話を理論の話として語りたい場合、それは批評というよりも、理論の理解を目的とした場・テクストにおいて為されるべきだ。
## メジャーな理論・大きな理論の問題点
ここまでは、あくまで「理論の適用の自己目的化」を批判してきた。次いでここからは、メジャーな理論・大きな理論を持ち出すことそれ自体が起こし得る問題を指摘する。ただし、これは単なる否定や非難ではなく、注意を促すことを目的としている。
さて、小説にせよ映画にせよそのほかのコンテンツにせよ、現代の多様な表現のなかには、必ずしも既成の枠組みでは語りきれない新しい問題や、あまり多くの人には注目されていない繊細な問題を主題とするものが存在する。
そして、そうした問題は時として「格差」「アイデンティティ」などのより大きな言葉に還元されてしまいがちである。
メジャーな理論・大きな理論を持ち出して作品批評を行うことには、小さいながらもユニークで語るに値するテーマを、これまで散々語られてきたテーマのパターンとして回収してしまう危険性がある。
これは、権力的非対称性に基づく認識的暴力としてすら機能し得る。ここには自覚的でなければならない。さもなくば、理論の適用の自己目的化よりも、よほど恐ろしい帰結を導きかねないのだから。
ほとんど言うまでもないことかもしれないが念のため書いておくと、その理論を適用することに明確な正当性がある場合、は全く問題としていない。例えば、植民地の状況を描いた作品にコロニアリズム・ポストコロニアリズム的な批評を行わないことには無理があるし、性役割的にマージナルな存在を描いた作品をジェンダー論以外の観点から見るのも建設的ではない。ただ、問題の矮小化・歪曲につながりそうな大雑把な語りのために理論を持ち出すのであれば、それは悪用だ、ということ。
正直、筆者の視座からするとここまではごく当たり前の認識であるため、適切な言語化がいやに難しい。ただ、そのあたりさほど反省されていないように見える批評文に出会うことが多々あるため、あえて言及を試みた。より説得的になるように、TODO: 後で気が向いたら具体例を足す。
## なぜ、内在的読解を志向するのか
筆者が「まずはテクスト内在的読解、或いは外在的であるにせよ常識的な範疇での読解(意図・文脈の解明や、その実証的裏付け)を試みて、それから批評的に言い得ることがないかを探索する」という思考過程を採用するのは、本稿で述べてきたような理論適用の危険性に対する忌避感があるのも大きい。
また、スタンダードな解釈手順(左記のような古典的な読み方や、メディア特有の表現手法に関する知識の適用)をすっ飛ばして、「現代思想ベースの批評を書くぞ」「〇〇理論は何でも語れるぞ」という地点から始めてしまう向きに対する、マニアとしての嫌悪感もある。これは否定し難い。例えばセカイ系アニメに精神分析理論を適用して気持ちよくなる趣味が一般的に「悪い」ものであるのかはともかくとして、筆者は嫌いだし、ナンセンスだと思う。
(〇〇はラカンで言うところの<現実界>だよね、のような指摘の空疎さを思え)