入試国語(特に古文漢文)不要論の誤謬について
入試古文漢文不要論は一面において正しく、一面において明らかに間違っている。これは問いの立て方に由来するものだ。
本来、「共通一次試験の課題」「個別の大学の試験構成の課題」「高等教育課程の課題」に分解して捉えるべき諸問題を、一口に高校古文漢文の不要論などの言い回しで包括してしまっているがゆえに、解きにくくなっている。然らば、簡単にせよ。
その視座に立ったうえで、「世の大学入試の共通一次試験への依存度が高い」「教育課程が出題範囲を実質的に束縛してしまっており、試験の質的向上に限界がある」といった状況が入試制度全体の健全性を阻害している点は自分も問題に思う。
反面、「国語科目を必要と判断する個々の大学・学科では入試科目に採用できるべきである」とも主張しておきたい。
そして、上記の課題設定に立脚する場合、政治家や官僚に「アドミッションポリシーベースで入試をデザインできるように、制度を直そう」と要求・提案してゆくのが、理路のうえでも運動論的にも正しい。
以下、その他の細かい論点についてもいくらかコメンティングしておく。
(「よくみる素朴な指摘はそのままでは通用しない」ということを簡単に示したいだけなので、そこまで精緻には語っていない。ツッコミの余地は多分にある)
「実利的な技法の習得に寄せるべきである」という主張について
実は中学高校では構文・形態にまつわる諸知識がそれなりに教えられている。そして、明晰な文章構成を行うための技法についても時間は割かれていた/いるはずである。この点について云々している人間は、国語の時間に寝ていたか、あるいは教師の授業が未熟だったのか、または単に理解していないかだろう。「格助詞」が何のことだかもわからないような日本語母語話者がそこそこ存在することを踏まえると、実際みんな寝ていたのかもしれない。
ちなみに実利に寄せることを要求するのであれば、少なくとも数学を真面目に勉強するのが筋となる。そこはよろしくお願いしたい。俺も勉強するからさ。
「教科書に掲載されている文章は論理的ではなく、見本として相応しくないものが多い(ように感じる)」という主張について
小説やある種の感性的な随筆がそう感じられるような内容であることについては、特段否定しない。しかし、そもそも国語科目が目指すのは「文章を読み解き、その構成を整理して、十分に主旨を理解する能力の涵養」であって、「論理的に完備な(それは例えば数学の定理のような)文章を読み解く力を養うこと」ではない。
「進学先で必要ない・仕事で使わない」という主張について
古文漢文は現代文理解の前提となる文法知識を提供する科目でもある。が、日本語でコミュニケーションを取らないなら確かに使わないかもしれない。
……という意地悪はともかく、進学先が史学科・日本文学科であるような人々は確実に使う。高大連携の面での妥当な落とし所も含めて主張する必要があるだろう。それを踏まえると、「全員に課すのは過大である。選択科目化が望ましいのでは」という立論には一定の理が認められる。
あるいは高校国語不要論の範疇を超えた大胆な主張をしようとしているのであれば、それも良いだろう。古語漢語教養それ自体の価値を懐疑するなどがその例と言える。ただし、近代以前の歴史を理解するためのツールを捨て去る選択に限りなく等しいことは認識しておくべきだろう。
「科目名は国語でなくても良いのでは」という主張について
個人的には同意。語「国語」は一種のナショナリズムの発露として受け取れるためだ。「日本語」の方がそのあたりまだしもフラットな言い方ではある。
ただ、現場実態を考慮すると日本語を中心とした課程・カリキュラムにならざるを得ない点は見逃してはならない。つまり、「文芸鑑賞」「言語表現技法」などというと科目名が過度に抽象的で実態を反映しなくなる懸念がある。
「授業もあっていいし入試でも問われていいけれど、水準が低い」という主張について
これは国語系科目に限らず一般的に言って、高い方に合わせてベースアップをおざなりにした場合に社会がどのような方向に進むかを考えたい。
自校の授業体制に不満がある場合、上手いこと内職するとか、サボって図書館行くとか、そういうことをすればいい。