入試国語(特に古文漢文)不要論の誤謬について
入試古文漢文不要論は一面において正しく、一面において明らかに間違っている。これは問いの立て方に由来する誤謬だ。
本来は
共テの課題
個別の大学の試験構成の課題
高等教育課程の課題
に分解して捉えるべき諸問題を、一口に「高校古文漢文の不要論」などの言い回しで包括してしまっているがゆえに、解決策が得にくくなっている。然らば、簡単にせよ。
まず、「世の大学入試の共テへの依存度が高い」という問題がある。
このことによって、共テの国語科の重要度が良くも悪くも保持され続け、あまり当該科目と親和性の高くない進路選択をしている受験生が割を食っている。これはほとんど事実として認めて良いことだろう。
また、共テには「高校の教育課程が共テの出題範囲や程度を実質的に束縛してしまっており、試験の質的向上や内容変更に限界がある」という、大学側からの批判も考えられる。
これも、程度問題とはいえ幾らかの理不尽を教育・受験の現場に引き起こしている「制度のジレンマ」だと筆者も認める。
そして、そうした問題群の結節点として槍玉に上がりやすいのが、国語科目とりわけ古文漢文である、と整理できる。
読者諸氏が左記のような構図を明確に言語化した経験があるかはともかく、ここまでの認識はそこまで大きな留保を置くことなく共有できるものではないかと筆者は考えている。いかがだろうか。
さて、以下では筆者の思う解決方針を述べる。
ここまでの問題は、ある程度「個別の大学の試験構成の課題」に落とし込めるし、私立大学においては実際にその方向で解消を見ている学校もあるように思う。
そして、それを「大学種別を問わずに」実現できるような、よりラディカルな制度変更が行われれば、「科目の要否」という問題を「個々の大学のアドミッションポリシー設計と試験設計が整合しているか」という、理論的には比較的解きやすい問題(実際的には経済性の問題、機会平等の問題等にケアが必要となり、ここが本当に苦しむべきポイントである)にスライドさせることができる。
問題がひとたび「アドミッションポリシー設計と試験設計が整合しているか」にスライドしたら、古文・漢文(或いは数学・地理などでも良い)などの個別の科目を「試験に採用することの是非」を外部から論うモチベーションは、消える。
これは端的に、単に学校学科の方針の話になり、不満を持つ者は大幅に減ることになると予想されるからだ。
つまり、受験科目が受験先学校学科の期待と一致するわけだから、生徒側も「進学先の学科の要求する知的水準を突破できるような勉学に励むだけ」という気分で受験生活を送ることができるはずだ、という見方である。進学を目的とした勉学の在り方として本来的なものだろう。
ここまで述べてきた課題設定・解消方針を採用する場合、政治家や官僚に「アドミッションポリシーベースで入試をデザインできるように、制度を直そう」と要求・提案してゆくのが、理路のうえでも運動論的にも正しい。(ただし、具体政策の議論は本稿の目的を逸脱するため、行わない)
受験のコンテキストで科目の話をしている人々の気持ちはあくまで、「どのそこの学科の受験に、当該科目を使わなければいけない。が、当該科目はその学科での学問とシナジーが薄いのでやる気にならない」といったところだろうから、上記の方向での議論の進展が得られれば、「特定科目不要論」を少なくとも受験の面からは気にしなくて済むようになるものと考える。
結論。端的に、「先に制度レベルの話をしよう」だ。
……以上を踏まえても、「教育課程に特定科目(ex: 古文漢文)を置くか」についてはなお議論の余地がある。
が、「高校生に期待する知識教養の程度」がどうあるべきかという、本質的な議論がまず先に行われなければ、「古文漢文を含むべきか」はやはり判断することができない。
ここにおいても、特定科目不要論からはじめるのは、議論をいたずらに混乱させる態度であるといえ、それだけをもってしていったん退けるに足ると思うが、どうだろうか。
しかし、あえて教育課程についても不要論のレベルにまで下降し、細かい論点に対していくらかコメンティングしておこうと思う。
やや具体性を高めた主張が、「古文漢文不要論者」に何らかの納得を与える可能性があるからだ。
※ネタバレしてしまうと「よくみる素朴な指摘はそのままでは通用しない」ということを簡単に示したいだけなので、そこまで精緻には語っていない。ツッコミの余地は多分にある。
・「実利的な技法の習得に寄せるべきである」という主張について
実は中学高校では構文・形態にまつわる諸知識がそれなりに教えられている。
そして、明晰な文章構成を行うための技法についても時間は割かれていた/いるはずである。
この点について云々している人間は、国語の時間に寝ていたか、あるいは教師の授業が未熟だったのか、または単に理解していないかだろう。
「格助詞」が何のことだかもわからないような日本語母語話者がそこそこ存在することを踏まえると、実際みんな寝ていたのかもしれない。
ちなみに教育課程で教える科目を実利的なものに寄せてゆくことを要求するのであれば、学習者側は少なくとも数学を真面目に勉強するのが筋となる。そこはよろしくお願いしたい。
・「教科書に掲載されている文章は論理的ではなく、見本として相応しくないものが多い(ように感じる)」という主張について
小説やある種の感性的な随筆がそう感じられるような内容であることについては、特段否定しない。
しかし、そもそも国語科目が目指すのは「文章を読み解き、その構成を整理して、十分に主旨を理解する能力の涵養」であって、「論理的に完備な(それは例えば数学の定理のような)文章を読み解く力を養うこと」ではない。
もしかしたら、演習問題の出題内容の話かもしれない。確かに、設問が非論理的であっては困る。
が、巷間そのように指摘されてきた問題には論理的に解けるものも多かったし、第一、仮に設問が悪かったとしもそれは出題(者)の瑕疵であり、科目の瑕疵ではない。
(質の悪い問題が出される傾向が他科目に比べて明らかに強い、と客観的に判断できるレベルなら、科目の問題だが)
・「進学先で必要ない・仕事で使わない」という主張について
古文漢文は現代文理解の前提となる文法知識を提供する科目でもある。が、日本語でコミュニケーションを取らないなら確かに使わないかもしれない。
……という意地悪はともかく、例えば進学先が史学科・日本文学科であるような人々は確実に使う。
そうであるなら、高大連携の面での妥当な落とし所も含めて主張しなければ片手落ちの議論となる。
さて、これを踏まえると、「全員に必須科目として課すのは過大である。選択科目化が望ましいのでは」という立論には一定の理が認められる。筆者もその筋には同意する。あとは価値の問題でしかなく、国や行政、自治体の思想レベルでの調整に話が移行する。
……あるいは、高校国語不要論の範疇を超えた大胆な主張をしようとしているのであれば、それも良いだろう。
例えば「古語漢語教養の価値そのものを懐疑する」のも、議論として面白いかもしれない。
ただし、その価値を否定することは、近代以前の歴史を理解するためのツールを捨て去る選択に限りなく等しいことと、予め認識しておくべきだろう。
・「科目名は国語でなくても良いのでは」という主張について
個人的には同意する。語「国語」は一種のナショナリズムの発露として受け取れるためであり、また、「非日本人の日本語話者」を排除する点で、日本語の利益をも損なうからだ。
また、科目名を「文芸鑑賞」「言語表現技法」などと突き詰めてしまう方向性もあり得る。ただし、過度に抽象的な命名は実態を反映しなくなる懸念がある。
・「授業もあっていいし入試でも問われていいけれど、水準が低い」という主張について
これは国語系科目に限らず一般的に言って、高い方に合わせてベースアップをおざなりにした場合に社会がどのような方向に進むかを考えたい。
自校の授業体制に不満がある場合、上手いこと内職するとか、サボって図書館行くとか、そういうことをすればいい。