ジャッジする側に立ちたいという欲望と手を切る
普段から会話相手に「おもんない」などと頻繁に言ってのける人物が、周囲から「おもろ」だと思われることは少ない。何らの反省もなく長期的にそのような振る舞いを継続していたら、いつか孤立するはずだ。
エスプリを芸の領域にまで仕上げて世に憚る例もあるにはあるが、基本的にそう上手くは行かない。ただのイヤな奴として排除されるだろう。
正しさにまつわる諸事にもほぼ同等のことが言える。道義的・政治的な正しさを根拠に他者を攻撃してばかりいる者はそのうち攻撃される側に回り、痛い目に遭う。そもそも、清廉潔白な言動を生涯にわたって継続している人間などほとんど存在しないのだから、相手の痛い腹など容易に見つかるのだ。そのような安易で無益で不健康な行いに、知性を見出すべくもない。
批評家もそうだ。芸術作品にせよ政局にせよ何にせよ、扱き下ろしていればいいというものではない。対象への冷徹な眼差しが結果としてその愚劣さや歪さを浮き彫りにすることはあるだろうが、そればかりに終始する者の声は単なる野次にしかなり得ない。対象事物の本質(それが美点であっても汚点であっても)を剔抉する態度こそが肝要で、口ぶりだけ真似てみても仕方ない。
思うに批評には、第一に愛と誠実さとを以って観察する過程が必要であり、第二に謙虚さと礼儀の表出が不可欠である。
そして、より個人的な定義を述べるなら、文明と野蛮との緊張関係に対して真摯でいることこそが批評家の条件だ。
ついでながら、巷間に出回っている「批評・批評家についての誤解」に対しては幾らか思うところがあるので、一言述べておく。
「not for meだったと思って次に行くことができずに過度な一般化をしながら任意コンテンツを攻撃する人々」とか「文句ばかりで物事を前に進めるような建設的なアクションはしない人々」とか「シニカルで不躾な物言いがセンスの証明だと思っている人々」とかは、批評家ではなく単なる馬鹿である。批評家ではなく、馬鹿と呼ぼう。
いや、職業批評家が割と頻繁にそういう馬鹿さを露呈してしまっている状況があって、それが目につく鼻につくというのもまあ、わかるのだけれども。
話を戻そう。事ほど左様に、「審判欲求」は身を滅ぼすものだ。直ちに影響はない。ないものの、緩やかにじんわりと、わたし/あなたの生活を心を言語感覚を蝕み、他者との関係性を毀損する。
有害な欲望とは手を切ろう。目を開けていられる時間は、そう長くないのだから。