『オッペンハイマー』感想
#映画感想
2024-05-01
「日本公開しなければ、クリストファー・ノーランは今後観ない」などと昨年段階で言い放った手前、ちゃんと劇場へ足を運んだ。原爆の親と呼ばれる人物についての大作映画が被爆国の目に触れないのであれば、それは嘘だろう。しかして、嘘ではなくなった。喜ばしい配給動向と言える。
ただ、やはり一回の視聴で追い切れる情報量ではなかったし、前提知識にも大いに欠落のある状態で観たため、読解内容に不足する点が多々見出されることだろう。が、それで感想を書かないというわけにもゆくまい。浅学を恥じつつも、幾らかの所感を述べる。
【全体像】
映画から汲み取れる立場表明は概ね以下のようなものとなるように思う。
1945年当時、アメリカでは誰も原爆被害の全容を認識などしていなく、ただ「投下は成功し、終戦に貢献した」という認識だけがコンセンサスであったと評価する
そうした有り様を正確に描くためには徹底してアメリカ内在的な視座に立たなければならず、そもそもアメリカ人(広義に。また、ノーランは英系米人であるという認識に立つ)としての監督・制作陣はその立場を回避できない
(映像視点はともかく)オッペンハイマーの一人称性を重視する態度形成は決定的なものであり、作品主題と切り離せない。当時において彼の思考・感情の埒外にあったような出来事はあえてスクリーンから退けるべきだ
よって、広島・長崎の惨状を直接的には映写しない判断は、テーマからの必然的帰結にほかならない
彼の人間的葛藤を掘り下げることにおいてこそ、原爆問題ひいては科学技術社会論の一筋縄ではゆかない困難さが浮かび上がる
一連の事件の中心人物と言える人間たちには、誰一人として一貫した立場を清冽に主張した者はない
ただ一人、アインシュタインはオッペンハイマーの外部として相対させ、ある種の舞台装置として彼を扱う
誰も原子力技術をコントロールなどできていなかったし、できていない
法の不在、密室的な情報環境、大義による視野狭窄こそが、集団浅慮を招く
無罪放免の人間もいないが、全面的に責任を負いきれる人間もまたいない
事件の中心人物については、誰一人として一貫した立場を清冽に主張した者はいない
例えば、トルーマンは自身の原爆投下責任を説きながらも、長崎に言及しない。
例えば、オッペンハイマーは1945年時点においては原爆投下に対して良心の呵責など覚えていない。
例えば、ストローズが政治的野心と個人的怨恨を動機としてオッペンハイマーを指弾し処分、政策・研究環境からパージしたのは明らかだが、彼は自らの敗北を悟った段階で徐ろに大義を持ち出している。
各々、滑稽だ。
【個別の演出について】
## 時間交差と、瓶に満たされたビー玉
作品演出上の都合、時系列の入れ替わりが甚だしい。「いまがいつであるか」を認識するための工夫が随所に凝らされている。細かい場面転換の技法も含めれば膨大な量となるが、目立つ部分を幾らか指摘する。
場面の局限によって、時間を空間的に表現する
オッペンハイマー事件時聴聞会の聴取部屋
ストローズ公聴会の議場
カリフォルニア大学の講義室
ロスアラモスのミーティングルーム
瓶に詰めたビー玉の量で、マンハッタン計画・トリニティ実験準備の進捗を表現する
ストローズ公聴会関連の幕では、モノクロ映像とする
## ハイゼンベルク予言、および罪と罰
ハイゼンベルクによる「オッペンハイマーは後の世で恨まれる」旨の予言の直後、前妻(ジーン)の自死に罪悪感を覚えるオッペンハイマーの幕に移る。ここで後妻(キティ)が「罪を犯しておきながら、その結果に同情しろというのか」という風に彼を諭しながらもしかし寄り添う様子が描かれた。これは、前妻の自死という個人的な事件のみに対してでなく、直前のハイゼンベルク発言も踏まえたうえでの「オッペンハイマーの罪」への糾弾、そしてある種の許しとも読み取れる。
## 私秘と暴露
オッペンハイマー事件という疑獄的な状況は、ある種の密室裁判によって成立した出来事である。聴取中に、前妻との関係を指摘されるオッペンハイマーがさもその場で不義の性交をしているかのように見せる演出があった。これは「道徳的正義を掲げ水爆実験に反対しながらも、世間的に不道徳的とされる卑俗な行為に及んでいたオッペンハイマー」を暴露する描写でありつつ、「正確な法的手続きを行わず、公正さを欠いたオッペンハイマーの密室的私刑」を強調する演出でもある。
## ヒステリックな赤狩りと、コミュニストの自業自得
オッペンハイマー事件が過度な反共ムーヴメントによる事実歪曲であったことは大方の一致が取れる認識だろうし、本作もその路線に概ね同意する内容に見える。が、本作には物事をバイナリーに捉えず、あくまでグラデーションのなかで丁寧に紐解く姿勢が認められる。
共産主義者やそのシンパの動向にも非があるという判断が幾らか見出せる。ソ連スパイであるところのフックスを計画参加させたことがその後の核兵器開発競争の激化の「一因」となったことを示唆している描写が、その好例だろう。
また、オッペンハイマー自身の政治参加には日和見主義的な部分が大いにあり、かつ脇が甘い。共産党についぞ入党しなかった事実は後年の展開を多少有利にさせはしたが、疑いを全く晴らすものではなかったし、政治参加姿勢としてはいささかもラディカルなものではあり得ない。
## 人文的な、あまりに人文的な
ただし、「科学者は人文学に疎い」というような偏見を排する描写は、オッペンハイマーを語るうえでは外せないだろう。ケンブリッジでの学生時代にはT.S.エリオット『荒れ地』を鑑賞、『資本論』は原語で読破、六週間でオランダ語を会得し、サンスクリット語にまで手を出してクリシュナの「我は死神なり、世界の破壊者なり」を引用する。そのような人物像を序盤から提示した点は、「単なる科学者批判ではない」「科学者だけに責を負わせることはできない」ことを示す意味で、正当な描写だったと言える。
## LIVE in the basketball court
原爆投下成功後、オッペンハイマーが球技場で演説をする場面がある。群衆が靴を鳴らし、熱狂の只中で、彼は自身の成果を高らかに喧伝する。
このシーンは、フランス革命期の「テニスコートの誓い」を踏まえアメリカナイズしたパロディとして理解できる。「暴力行使における政局的大義を主張する」場面としての一致から選ばれた舞台設計だろう。
さて、演説の最中、オッペンハイマーの意識はその場から遊離し、解離的な感覚質のなかで、自らの発言を他人事のように捉え始める。その場の熱狂を肌で感じつつも他方、原爆投下後の広島にいるような錯覚が、一瞬、彼を襲う。たまらず、彼はバスケットボールコートから抜け出し、帰路につくのであった。
1945年時点でのオッペンハイマーの態度を、婉曲的に表現したシーンだ。自らの罪状を無意識的には感じつつも成功の余韻に浸り、しかし大義にも罪にも明確な応答を行わず、逃亡する。責任回避の場面とみなせる。
## アインシュタインとの会話、受賞パーティの微妙なニュアンス
もっとも高名な理論物理学者は「アインシュタインの表彰パーティはむしろ彼の周囲が己のために行ったものである」と口にした。
そして、「オッペンハイマーにもまた、そのような時が訪れることだろう」と予言する。
これは、「後年のオッペンハイマー名誉回復で事件を綺麗には完結させない」姿勢を打ち出すための一幕だろう。実際、受賞パーティにおいてキティが(当時オッペンハイマーに不利な証言をした科学者との)握手を拒んだシーンは、単に個人的な恨みだけを表現するものではない。「自身を許すために来た」人間、どうしようもない自己憐憫に対するNoを宣告するための描写としても受け取れる。
ただし、許さないわけでもない。オッペンハイマー自身は受賞の栄誉を浴し、元同僚たちと形式的に和解した。
## アメリカンプロメテウス
そしてラストのセリフに至る。「テラーの計算違い」は、アナロジカルな意味において、その正当性を回復してしまった。
【評価】
作品の現在時が「オッペンハイマー保安聴聞会」であることからは、彼の功罪に対する冷徹な視線、本人の内面・心理に迫ろうとする意欲を感じた。罪だけがあるのではないし、栄誉だけがあるのでもない。
原作原題がAmerican Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimerであることも、作品が安易な賛美・不適当な批判の双方を退け、オッペンハイマーの個人史をまなざすものであることを示している。
プロメテウスの両義性。拝火・文明・野蛮。
作品の意図するところを丁寧に読み解けば、その歴史への繊細な手つきに気づけるはずだ。この作品は報われる。
ただし、万人に意図が伝わるかと言われれば、そうは思わない。私の読解が、あなたの読解が、正しいとも間違っているとも限らない。
本作もまた、歴史に裁かれ、そして再発見されることだろう。
昨年の米国公開時の騒動(バーベンハイマーミーム、きのこ雲表象のコメディ化・矮小化)といい、アメリカの一部(というには些か多すぎる)消費者の反応が作品の意と反対方向を行くようなものだったことには、正直なところ脱力感を覚えた。
が、制作陣はそうした光景すらもひとつの状況理解としてパフォーマティブに提示し、社会に/を問い質しているのではないだろうか。
人類のより良い未来を願って、擱筆する。