『ようこそ!FACT(東京S区第2支部)へ』
俺は名作だと思う。
真面目に全部拾えるだけ拾って書こうと思うので、長期間執筆し続ける。途中状態でも読みたい人はどうぞ。
後で加筆・清書する。「描写」という言葉が多い。適切な言い換えを考えよ。
## 思春期真っ盛りの青少年にとっておそらく『FACT』は劇薬である
見出しに書いた通りだが、以下の懸念があるのでストレートには勧めづらい。
20代後半あたりに読むと、最も適切な距離感で本作を味わえるのではないかと思うが、それまで待てと言うほどではない。
劇薬、というのは本作が以下のように、ポジティヴ/ネガティヴ両極端な性質を備えているからだ。
いわゆる共感性羞恥が激しく作用するストーリー展開であり、耐性がない段階で読むとダメージが尾をひく可能性がある
どうしようもない自意識を肯定するために、無理のある世界観を構築してしまうことへの免疫がつく
ただ、そうした経験は個人的にはある種のイニシエーションだとも思うし、フィクションの中で他人事として消化するのが必ずしもポジティヴなものであるかについては、留保しておきたいところもある
極端かつ妥当性の怪しい思想に安易にかぶれる体験を自分で体験しないままに読むと、そうした言動をあくまで他者のもの、批判の対象としてしか認識できなくなる恐れがある
とはいえ、十分な読解力・反省能力を備えた上で読めば、「自分にも起こり得る」出来事だという理解に至るはずの内容ではある
筆者にとって本書は、「自意識における麻疹のようなもの」を回顧する作品としての趣が強い。そして、だからこそ、そうでない読み方に対する切実な懸念を抱いてしまう。
その一方で、青少年こそがこれを読むべきだとも思う自分もいる。人生の早期に、自意識がもたらす様々な問題をこれだけ濃密に詰め込んだ作品に(客観的な視点で、というよりは究極的には他人事でしかあり得ない物語として)触れる体験は、やはり良薬にもなり得るからだ。
## 陰謀論者にかかわる描写の優れている点
陰謀論に詳しくない人が抱えがちな誤解・偏見を早期に防いでいるのは、FACTの誠実な点と言っていい(『チ。』が終盤までキリスト教学史・科学史における定説を明示しなかったことへの反省もあるのかもしれない)
例えば、
陰謀論者は不勉強だから陰謀論などにハマってしまう
FACT面々は「熱心に」陰謀論の勉強をしている
陰謀論者は狂信的(ファナティック)である
コミットの仕方には差異があり、使命感を抱いている者から、ただ仲間ができて楽しく交流できるから参加している者、無気力な者、等々
陰謀論者は、生老病苦の果てに陰謀論に行き着く
間違いとも言い切れないが、背景は一様ではない。辰巳を登場させた意味は、この点に関して読み手に両義的な認識をもたらすためだと思う
陰謀論はハッキリとそれと分かるし、簡単にその問題点を指摘できる
最後の方の専門家発言もそうだし、飯山による渡辺への反論が、陰謀論の根本は否定できていないことに注目するべき
## パターナリズムと階層間の亀裂(≠分断)
## 相手に伝わらない言葉を使う人々
人文学的なジャーゴンとか、そこまで行かずとも「それって〇〇主義だよね」のような大雑把な語りとかに対しては鋭いメスが入っている。
一方で、陰謀論者が自らの世界観・独自用語を前提に他人と会話しがちな点にも、それと同じように切り込みが入れられている。
瑣末な話だが個人的に気に入ったのは、映画の演出評をするのにいちいちフランス現代思想系のテクニカルタームとかを持ち出しつつ内実は大したこと言っていない人文学系学生、だ(もっとも渡辺の夢の中の体で語られていたシーンなので、作中人物の実際の発言でない点は考慮しておくべきだろう)
それにしても、やけに解像度が高い。
## ポストモダニズム的な真理観の自滅
## 飯山さんは現役学生である
「学部生までなら許せる」ラインの傲慢さ・素朴さを狙って描写していたように読める。飯山はパターナリスティックな介入を強く想定した福祉活動を考えていそうだったし、階層間のギャップに無自覚(使う言葉、生活環境、「教養」とみなす知識範囲などに関する差異を認知できていない)で、かつ初期の描写からはある種のノブレス・オブリージュ的なモチベーションを抱いていることが示唆されていた。
調査対象との安易な接近や、自己の価値観の押し付けを無自覚的に行いながらも、口からは高尚な現代思想用語(特に権力的非対称性に安住しながら独善的な言説を振り撒く行為を、本来的にはむしろ批判するような立場から言われるはずのもの)が出てくるというアンバランスさも、未熟さの描写だろう。
また、本作は文字通りのwokeism批判として受け取れるところもある。
実際、飯山が属していたゼミの担当教授が別方向の陰謀論・意識他界系的な言説に塗れていた事実をあえて最後に提示していたのは、そういう意図のもとだと指摘せざるを得ない。
陰謀論者の対抗活動もwokeなものとして書いていたし、勤勉で理知的でヒューマニズム的な思想を有する人々が先鋭化したことによって生じた反社会的な活動もまたwokeなものとして書いている。個人的にはフェアでちょうどいい塩梅の取り方だなと思う。
そしてそれでも、飯山の問題意識や夢そのものが悪いわけではない。熱意をもって何かを良くしようと「現実的な」一歩を踏み出した彼女には、エールが送られている。
本編終了後の世界ではきっと、投資家(郷田?だっけ)が言っていたように、色々な物事に揉まれていくのだろう。そうした進路選択を行い、実際に社会へインパクトを与えゆく/そうなりやすいのは、(良くも悪くも)社会的・知的な基礎をもつからこそだ、という落とし所ではないだろうか。
というかこの辺も抜け目ないというか、「早慶あたりの学生がツテで投資家と会ってその場でピッチ」みたいな都下スタートアップの風景は流石に身近にいないと描けないんじゃないのと思う。作者魚豊氏がW大出身かはともかく、近い位置にいた疑惑が深まる。
ともあれ、「思想内容ではなく生活態度、他者との向き合い方」への下降を着地点とすることを踏まえても、陰謀論者/知識人の対立などという浅薄な図式に飛び付かずに、あくまでそこにいる人間を捉えようまなざしを、筆者は感じた。
## つまり、「陰謀論にハマったことが悪い」……わけではない
陰謀論の相対化もぬかりがない。
作中では、「典型的な陰謀とされているもの(DS、隣国による日本コントロール説)と、真の陰謀とは、少なくとも形式的には区別しにくい」という見識にも注意が置かれている。
(ここで作中の例に言及。あとで書く)
また、作中で出ていたもの以外だと、「ビッグテック企業は、報酬系刺激ハックを多用することで、ユーザーの認知的・時間的・金銭的リソースを搾取している」とかが挙げられると思う。
これは世の中に受け入れられていて、しかも結構正しそうで、「証拠も出てくる」話でありながら、その実、このステートメント単体では典型的な陰謀論とほぼ同型だ。
①陰謀論に陥らないことの原理的困難性の指摘
②「『何を陰謀論とするか』にまつわる権力闘争」からの離脱
上記二点を以って、『FACT』は相手へ「陰謀論」というラベリングをして事足れりとする態度に真正面からNOを突きつけている。このあたり、特に知的誠実性を感じた。
## そして、陰謀論とは無関係な、ただの裸形の自意識の話として
陰謀論にハマったことはない。ネット系の右翼思想(ネトウヨ、という言い方をあえて避けている)にかぶれたこともなければ、左翼思想(というのも十把一絡げにできないものだが、あえて詳細かを避けている)を後ろ盾として過度な被害者意識を正当化したこともない。
そういう人でも、人間関係、特に親子関係や恋愛およびそれらに近い関係性において、理想と現実とのギャップを否認して、客観的に捉えたら明らかにおかしい自己正当化をしてしまった過去はあるのではないか。
たとえば、どう考えても脈がないのに、完全な拒絶でなければ「まだチャンスがある!」と思って、迷惑なアプローチを繰り返すとか。思い当たるところがきっと何かしらあると思う。なければ探せ。
前置きが長くなった。さて、ラストの告白シーンについて。あのとき渡辺は、(もう飯山と付き合おうとか思っていないのにもかかわらず)振られるために、シンプルで潔い告白をした。飯山との関係がここで落着したのは、本作の結論の一貫性に多大に寄与している。
## 腹割って話しましょう
最後、「飯山への告白」「先生の本音の吐露」あたりは、
腹を割って本音で話す
まずは相手の話を聞き、理解しようとする
自分にコントロールできないことはコントロールしようとしない
といった対話の基本姿勢を各者が最終的には遵守したという形。
## なぜ辰巳の問題は仄めかされるだけだったのか
ついでに言及しておくと、辰巳は、誰にでも身近な話だということを表現するために取り入れておきたかったキャラクターなのだと思う。そしておそらく彼が家族と上手く行かないのは、家族に対して一方的に陰謀論の話をしていたからだろうし、逆に家族も辰巳の話を聞こうとしなかったから、だろう。
ただ、辰巳の例はあまりにも典型的すぎたし脇役でもあるから、彼を軸に傾聴とか対話とか言い始めると説教くさい訓話にしかならないから直接的に語るのを避けたのではないかと思う。実際、陰謀論やリタイア後のサラリーマンが抱える孤独についての知識がなくても、何となく事のあらましを察せられるような構成になっていたと思う。
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場外の話
## チ。のあとにFACTを書いたことの意味(自己批判)
## いったんチ。を棚上げする