某所で書いたやつ
■「輪るピングドラム」(2011/7-12全24話)
「輪るピングドラム」の登場人物たちは何らかのかたちで「失われた」存在であり、愛を与える存在と出会うことで自己を承認されたのちにその存在を失い、ある者はそれを取り戻そうと、またある者は復讐を果たそうとする。
はじめに、ストーリー中に登場する施設「こどもブロイラー」に関して概説する。「こどもブロイラー」は、「いらない」子供たちが捨てられる施設であり、子供たちはそこに集められ、粉々にされ、「誰が誰だかわからなく」「透明な存在」にされる。高倉家(主人公一家)の父親で、「1995年の地下鉄での事件」の首謀者である高倉剣山は、「こどもブロイラー」に関して、不適切な施設としつつも、我々にはどうにも手出しできないとしている(不条理を正すためという大義名分で、大規模な暴力犯罪によって「世界を壊す」ことを企てるくらいの目的意識と行動力があるのにもかかわらず、である)。このような操作不可能性は、少数者に対する排除、あるいは難民という存在とも共通する部分があると言えるだろう。「こどもブロイラー」とは精神状態であり、そのような状態に置かれる人が多くいることは力でどうにかできる問題ではなく、また、その精神状態にある個人を救うためには、何らかの方法で愛や承認を与えなければならない。
かつて救いを与えてくれた存在を「1995年の地下鉄での事件」で失い、一時は復讐に燃えた多蕗桂樹と時籠ゆりは最終話で、「こどもブロイラー」の中にいる子供を救うためにすべき事に関して、示唆的な同意に至っている。
「ゆり、やっと分かったよ。どうして僕達がこの世界に残されたのかが。」
「教えて。」
「君と僕はあらかじめ失われた子供だった。でも世界中の殆どの子ども達は、僕らと一緒だよ。だからたった一度でも良い、誰かの『愛してる』って言葉が必要だった。」
「例え運命が全てを奪ったとしても、愛された子どもは、きっと幸せを見つけられる。私たちはそれをするために、世界に残されたのね。」
「愛してるよ。」
「愛してるわ。」
二人が至った結論は、愛を受けた身として、他者に愛を与えることが、自分たちが世界に残された理由だということである。この結論は逆に、個人が愛を与えられる範囲を外れてしまっては、他者を救うことはできないということを示唆する。しかし、それでも個人が個人に愛を与えることが、全体に対して無意味ではないことが、第一話の少年たちの言葉(最終話の「運命の乗り換え」後の冠葉と晶馬の言葉と同じ)によって示唆されている。
「だからさ、リンゴは宇宙そのものなんだよ、手のひらに乗る宇宙。この世界とあっちの世界をつなぐものだよ」
「あっちの世界?」
「カムパネルラや、他の乗客が向かってる世界だよ」
「それとリンゴに何の関係があるんだ?」
「つまり、リンゴは愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ」
「でも、死んだら全部お終いじゃん」
「お終いじゃないよ!寧ろそこから始まるって賢治は言いたいんだ」
「全然わかんねえよー」
「愛の話なんだよ!なんでわかんないかなあ」
愛の実践が、その二人の範囲をこえ、それ以上の結果をもたらす(「寧ろそこから始まる」)という示唆に関して、根拠らしいものは示されていないが、次作の「ユリ熊嵐」の中で、より具体的な形で示されているので、続けて検討する。
■「ユリ熊嵐」(2015/1-3全12話)
「ユリ熊嵐」では、人と熊が「断絶の壁」に隔てられた後の世界で、「熊」、「スキを諦めない」者、「透明にならない」者は「透明な嵐」によって「排除」される中で、人間:椿輝紅羽にかつて「スキ」を与えられた熊:百合城銀子は「断絶の壁」をこえて人間の世界に入り、欲望からさまざまな罪を犯しながら「嵐の中に飛び込む」。「熊」や「熊をかばう人」に対する、「透明な嵐」による「排除の儀」のなかで、「スキを諦めない」二人の「スキ」は女神「クマリア」によって承認される。「透明な嵐」の構成員の中には心を動かされる者もいた。
排除という営みの正体を探るにあたって、私が最も注目したいのが、本作品の中で唯一の「可愛くない」キャラクターであるところの百合川このみである。彼女の正体は学園に潜伏する熊のうちの一人であり、同じく熊であるところの百合園蜜子に利用されたあげく殺され、終いには「透明な嵐」の手によって対熊用大量殺害レーザー兵器の動力源として改造され、「ゲス!ゲス!」としか喋れなくなる。本作品のキャラクターの中でも最も不遇なキャラクターの一人ともいえる彼女に対して、この時点で心底同情した視聴者がいったいどれくらい居ただろうか。この場において、ほとんどの視聴者は、百合川このみを「排除」する「透明な嵐」を構成する一員となっていないだろうか。
最も博愛主義的な視聴者でさえ、すべての登場人物に関心を払うことはできず、そしてこの場で「見つけて」もらえないキャラクターは、百合川このみのようなキャラクターであろう。その事を強く示唆するのが、最終話の最後のシーンである。サイボーグ化された百合川このみは最終話で動作不良を起こし、「ともだちの扉」の前に捨てられる。そこに現れ、百合川このみを「見つけた」のは、作中では名前すら紹介されない、地味な外見をもつモブキャラクター(スタッフロールでは、亜依撃子《あいうちこ》という名前が与えられている)である。彼女は対熊用大量殺害レーザー兵器のオペレーターをしていたが、最終話で椿輝紅羽と百合城銀子による「約束のキス」を目の当たりにして心を動かされ、レーザー砲を撃つことができなかった。心情の変化を経験した彼女は、「透明な嵐」の集まりを途中で抜け出し、百合川このみを探しに行き、「見つける」。
「透明な嵐」の思想に進んで迎合する人(進んで誰かを排除したいと望む人)はそれほど多くはないだろう。寧ろ、自分自身を「透明な嵐」たらしめている人々の多くは無自覚だろう。「ユリ熊嵐」を配信する動画配信サービスの一つである「ニコニコチャンネル」では、動画にコメントを残すことができるが、その中で、「透明な嵐」を他集団になぞらえて非難するようなコメントが見受けられ、その他集団とは多くの場合、まさに現代日本においてたびたび排除の対象となるような集団である。どれほど陰惨な排除であっても、排除する人間は時に無自覚である。どれほどの博愛主義者であっても、人は自らの中に「透明な嵐」を秘めており、そしてその事に気づかない。
それでも、排除される人に救いがあるとすれば、それは、排除される人に愛を与えることができない圧倒的大多数にかかわらず、「見つける」ことができる人がいるということだろう。そしてその「見つける」ことは、人々が注目しない主体によって、人々の気づかぬ間になされる。そして、その営みは他者を感化し、少しずつ広がっていくものだということが示唆されている。最終話の最後の台詞にあたる「クマリア」の言葉を引用する。
「娘たちの行く先は、誰も知りません。でも、それでいいのです。世界はあなたのスキで目覚め、変わっていくものなのですから」