ポピュラー哲学って、どうよ?
学部生のころに #哲学 専攻の院生さんがたに #語用論 の #勉強会 でお世話になっていたのですが、先日久々に会って話す機会があり、そこで #ポピュラー哲学 が話題にのぼったので、メモ書き程度にまとめてみようと思います。予め断りを入れておきますが、自分自身はどちらかというとポピュラー哲学寄りの立場に立っています。というのも、その語用論の勉強会で対人 #コミュニケーション に関する示唆を得ることによってコミュニケーションの機能不全を一部改善したという経験から、哲学は使ってなんぼだと思っているふしがあります。 ポピュラー哲学とは
哲学というと、実生活と結びつきづらいものというイメージを持つひとが多いでしょう。哲学を知ることであらゆる問題をより深く広く見ることができるようになる場合が多々ありますが、実際のところ、哲学は寝食ほどは生活に必須のものではありません。そこで、どうしてもとっつきにくい哲学を、生活のレイヤーまで降ろし、自己啓発書のような機能を持たせたのがポピュラー哲学だと言えそうです。
例として、ハイデガーの入門をうたうポピュラー哲学書をひとつ挙げます。その本のシリーズの中では、哲学者が現代に復活して、さまざまなバックグラウンドをもった一般市民のもとで講義をするというフォーマットがとられています。死を取り扱ったことで知られるハイデガーに、いろんな人が死生観をまじえた人生相談をするのですが、そこでハイデガーは「恐れずに前向きに生きろ」という趣旨のことを言います。
しかし、もし実際にハイデガーが復活し、同種の質問を受けたならば、死という大きな問題に生涯をささげたハイデガーは、「恐れずに前向きに生きろ」と言うことがどれだけ困難で無意味なことか誰よりも知っていることでしょう。はたして、この本のなかでわざわざ時空を超越してまでハイデガーが登場した意味とは何だろうと、怒りに近い不信感をもち、それからずっと気になっていました。
ポピュラー哲学はそれほど問題ではない?──サラリーマンのための似非哲学?
「ポピュラー哲学は、それっぽい内容を、難しそうな哲学で権威付けているだけ」と言ったのは、自分が研究や進路のことでずっとお世話になっている先輩です。その先輩が一通り問題提起をした後、別の先輩がツッコミを入れます。「でも、ポピュラー哲学を求めているような人は、はたして本当に哲学を必要としているんだろうか──ポピュラー哲学を説く人を遮って、おまえが前に出てきて、この哲学思想は本当はこういうもので、と説明を始めたところで、いったい誰が喜ぶだろう。ポピュラー哲学を求めるひとは、それっぽい内容を、ただの権威付けによって納得させられたいだけなんじゃないか。それこそ、ハイデガーという権威に『前向きに生きろ』と言われるだけで十分な人がそれを求めるんじゃないか。」たしかに、哲学を元から必要としない人が、哲学に関する誤った認識を持っていたところで、誰も損することはありませんし、まっとうな哲学をやっている人の活動が妨げられるようなことも直ちには無いと考えれば、ポピュラー哲学を攻撃する意味はあまり無いのかもしれません。飲みの席の雑談なので、ここから先の議論は別の方向に向かいました。
ポピュラー哲学で一番困るのは、哲学を本当に必要とする人ではないか
せいぜい自己啓発書のひとつのバリエーションを求めている人にとっては、ポピュラー哲学はまさに有益で無害なものと言えるでしょう。しかし、ここで本当に問題なのは、それが本当に哲学を求める人によって触れられるときです。ポピュラー哲学の各種媒体は、哲学入門の体裁をとっています。人の生き死にについて思い悩むひとが、ハイデガーの思想にふれて何か重要な示唆を得られるはずだったところに、時空を超越してわざわざ登場したハイデガーが「前向きに生きろ」などと中身のないことを言ったなら、「なあんだ、ハイデガーってそんなくだらないことを考えた人なんだ」と落胆し、重要なはずの学びから離れてしまうでしょう。
だからこそ、哲学それ自体が「ポピュラー」になるべきではないか
そもそも、なぜポピュラー哲学のようなものが発生したかということを考えれば、それは哲学がただでさえとっつきにくいからでしょう。ハイデガーの思想から重要な示唆を得るはずだった人がもしポピュラー哲学に触れなかったとしても、最初の段階で躓けば「難しくてよくわからないし、きっと私にとって重要な示唆はここには無い」と思って離れてしまうでしょう。そこで、とっつきやすくも深みのあるポピュラーな哲学があれば、彼はきっと哲学によって重要な示唆を得るでしょう。そしてその実現のためには、哲学と称する自己啓発書の著者がより学問的な哲学を参照することではなく、アカデミアに閉じこもっていた哲学者が内容を噛み砕いてかつ矮小化しないような説明をすることでしょう。この主張の背景には、語用論の勉強会で哲学専攻の院生さんたちに手取り足取り教えてもらった経験があります。思い悩み考える全てのひとが、その答えやさらなる考えを求めて哲学にアクセスできるような世の中が来るといいな、と、ぼんやりとですが、思うのです。