自分の問は「コミュ障」にあった
おおきな問は、「コミュ障」に対する医療モデル──コミュ障の責任を当事者に求める──から脱して、社会モデル、統合モデルにいけないか
単なるコミュニケーションの問題ならば、あまりに人工的なので社会モデルは難しい。
とすれば、社会モデルを使えるのはより「社会的な」行為連続ではないか
それこそ、就労や雇用の安定化ではないか──医療モデルでは「社会参加」と呼ぶ行為
「就労や雇用の安定化に社会モデルが使える」というのだけでは単なる主張。論文になるためには問がなければ。
問は一点突破で具体的に。大きい問からミニマイズしていかないと
就労の問題ならいろいろある。
外国人の就労なら言語の問題も絡むしやりやすい?
ASDの就労なら切実な問題?
因縁のある社会言語学を引っ張ってきて闇鍋する?人類学との相性もよさそうだし。
指導教員からは「何らかの形で社会言語学をやり続けられる環境が良いと思う」って言われてるし
「他者と違うこと」の捉え方の人類学?──今の能力では形にできる気がしない。人類学ってそもそも何だ?
枠組みが無いというのが自分にとって大きな障壁か──指導教官はとくに気にしてないようだが
一般就労をするコミュ障は、社会統合と独自性のあいだでどこで折り合いをつけているんだろう
ASD者にせよ外国人にせよ、就労支援にかかわる人に話をききに行こうと思っていた。
しかし状況が状況だけに、フィールドに入るのは無理
となると、電話やチャットでの問い合わせがまず思いつくが、かっちり設計できてない状況で意味のあるインタヴューができるか。
よって、設計しなければならないが、それがどのようにして可能か見当がつかない
理論的な研究や、メタアナリシスに切り替えるのもアリだが、図書館がしまってる状況でどれだけのことができるか
一般就労してる人は、コミュニケーションの満足度はどれくらいのものだろう(量的)
「弱者のコミュニケーション」という軸は失ったらあかんやろな
鶯谷デッドボールな今何をしているんだろう
釜ヶ崎とか。関心あるだけでなんも知らんけど
不況時の弱者の就労?
世界認識のズレって面白いけど、当然のことながら当人はべつにズレてると思ってないもんだから、どうすれば意味のあること言えるかな
VdC読み直す?
そもそもマージナルな人って、対象を定めらんないから掬い出すのが困難なのよな。あんまりにも一般的になるか(←これだと、それこそマージナルが見えてこない)、それか典型例になるか(←ここで掬い出せないものをマージナルと定義してるから、定義からしてマージナルは含められない)どっちかだし、ここを攻めていくのは悪手か。いやまあマージナルなものに焦点をあてる研究はあるというかむしろ多いんだけど、「このマージナル」を研究することによってそれをマージナルから外してる。あくまでマージナルにこだわるなら、「このマージナル」を対象にすえるか、いやそれは当たり前か普通の研究か。まあ普通の研究をしよう。マージナルに夢を見すぎない
コミュニケーションに障壁がある、特定の集団の構成員。
あるいは、マージナル同士のコミュニケーションとか。当事者としてはそれが面白いんじゃないか。必ずしも大きな上下関係のない、でも確実に歪なコミュニケーション。
ぜったいにマージナルからはずれない、そこだけは縛りとして外したくない。
考えれば面白そうなテーマとかいろいろあるんだけどね、住んでる場所も(物理的に)都市に限りなく近い(文化的に)イナカだし。
でもたぶんそういうのは自分の仕事ではない。
鶯谷デッドボールに関心をもつあたり、自分は非対称なコミュニケーションへのエンパワメントに興味があるんだろか。
エンパワメント。
就労支援。
他にエンパワメントはある?
医療の現場?がっつり医療モデルのアプローチだね
鶯谷デッドボールは、法的なエンパワメントもしてる。
メシを食って、弱いモンいじめに法の盾を使う、それ以上のことはできないか、しないか、要らないか。
おそらく要らないんだろうなひとまずは。メシが確保されたら日常生活は個人がやるのが権利だし。
非対称なコミュニケーションに対する良いエンパワメントとは?
「良いエンパワメント」という線でいくとまた研究から外れる。研究は善し悪しを決めるもんじゃないだろ、人の子よ、ぺしぺし。
当事者でありながらエンパワメントする人、という存在なんて面白いんじゃないか。
同胞としての意識、みたいな。自分のいちばん古い友人にはその傾向が強くて、「同胞であるかどうか」の見定めに(過剰なくらい)気を使う。いちばん古い友人にインタヴューするかどうかはナシ寄りで検討として、極端な例としてアタマの片隅に。
当事者でありながらエンパワメントする人が持つ、クライエントに対する仲間意識、みたいな。
どうやって探すかはともかくとして、探しぁ居そう。
ソーシャルワーカーってどうなんだろうね
仕事として割り切りが要るもんだろうし。最初はなにか意識をもってても擦れっ擦れになっていきそう。
そうじゃないとしたら、それこそ面白いんだけど、そうだとしたら、あるいは何が言えるか?いや何も言えないか。
これを研究テーマにしようというアイディアは、その対象となる人たちが擦れてないという前提に立ってる。
いや、擦れっ擦れな人は、理想と現実のあいだでどこに落とし所を設定してるかとか。
自分もたぶんこの先擦れっ擦れになっていくんだけど、そのときにどうやって落とし所を設定するかというのは切実な問題、モチベーションも十分か。どっちに転んでも大丈夫なら、慌てることもないだろし。
理論的な部分で、社会モデルへの批判を含められるか。
フィールドに入ってデータとってくりゃ修論くらい通るやろという甘い考えがある。
そういう意味でも、理論のブリコラージュよりも下手くそでも一次データをとりにいく方法のほうが逆に安心感あるかも。
もちろん、このご時世だし普段いけるもんでも上手くいかんこともあるだろうし、そこはちゃんと確認をとって、指導教官と連携をとって。
理論だとしたら、事態が落ち着いたらフィールドにでていく前提で、うまーく接続できるように組み立てないといけないか。博論まで理論いっぽんというのはいろんな意味で厳しそう。
コミュニケーション弱者のエンパワメントをする人は、クライエントに対してどういうモチベーションでやっているのか。そのモチベーションが満たされないとしたら、どうやって納得しているのか。──うーん、問として弱いかなあ。
にしても、図書館いつあくんだろう。