横塚本線の歴史
二の瀬本線が開業したことで交通の要所に発展した瀬ノ間は、今後利便性を増やすために、狭山道沿いに鉄道路線を敷設することになった。 ちなみに、狭山とは、択田の真ん中にある旧国名のことで、山に挟まれたところから狭山として名付けられた
決して埼玉県の狭山とは無関係である
敷設にあたっては、狭山川沿いに敷設する形となるため、曲線の多い路線となった。
開業してからは吉祖~瀬ノ間を運用する急行列車「とくなか」を運転した。2390年代になるとモータリゼーションの影響で急行列車は減便し、ますます地味な本線としていた。
しかしながら、2395年から択田~瀬ノ間の高速輸送プロジェクトにより、峰択鉄道の南原線を湯川まで敷設することが決定したことで、状況は一変した。
非電化だった湯川~上野を直流電化し、もともと国鉄によって交流電化していた穂崎~上野を直流電化に変更した。また、湯川~穂崎は複線化し、穂崎~瀬ノ間についても豪湾本線とは別の線路で敷設することになった。
もともと、択田~瀬ノ間の特急列車は平坂本線と立岸、豪湾本線を経由していた が、交直流電車を調達する必要があって高コストだったことと
直線に結んでいないので5時間かかっていた
着工は2401年
横塚本線の改造は2411年に完了
峰択南原線は2417年に開通し、その年に択田~瀬ノ間の新特急列車が運転開始となった
これにより、択田~瀬ノ間を南原支線と横塚本線経由にすることで3時間に短縮することができた
これは、車両の新調も要因に含まれているが・・・
ということで現在は、択田~瀬ノ間の高速輸送路線の一部として使用されている。