越中 玲衣|M2 | 20201202|研究発表+討議
戦後沖縄における墓地・葬送儀礼空間の変容
■章立ての整理
・序章
・第 1 章 近代以前の墓地空間の表象と空間構造
・第 2 章 集落と他界との境界
・第3章 戦後の移住者と墓地の移動
・第4章 戦後墓地・葬送儀礼空間の変容
■先行研究
戦後「霊園型墓地」の空間的変容に関して
1、石川栄耀「那覇市都市計画の考察」那覇市企画部文化振興課『那覇市史に資料編 第3巻1-戦後の都市建設』, 那覇市 ,1987 2、沖縄県福祉保健部 『沖縄県墓地公園整備基本指針』 沖縄県福祉保健部薬務衛生 課、2000 3、早坂優子「沖縄県都市部における「霊園型墓地」の受容」『沖縄民俗研究 』第 32 号 , 沖縄民俗学会 , 39-55, 2013 4、佐野浩洋 , 津々見崇「那覇の戦災復興における都市計画家・石川栄耀の役割―花 城直政との関係に着目して―」『土木史研究』第 31 号 , 土木学会 ,47-54,2011
■墓地の分類と定義、墳墓の形態
・墓地:墓地を増設する場所
・墳墓:死者を埋葬した築造物
本土と沖縄の経営システムや所有の違い
■石川栄耀『那覇市都市計画の考察』より
那覇市の都市計画
1956年→2000年の計画で公園的景観を意識した墓地に
■「霊園型墓地」のモデル
・都市地域型
・山間地域型
・海岸隣接地域
→三つのモデルの共通点
駐車場、広場、緑地、墓地の形態(破風型)
〈議論〉
結:石川さんの論文 1956年から2000年の都市計画の変化
→1956年に霊園型墓地が計画され、その後に各地でも独自の形で霊園型墓地が計画される。2000年に無縁化墓地、スプロールなどの問題点からモデルとして計画された。
滝口さん:今回の発表は論文の中でどのような位置付けか
→これまで、伝統的なものがどう変化したかに着目していた
その中で近代化(公営墓地の登場)が重要ではないか
公営墓地を明らかにすることで、それまでとの比較が可能に
近代化、公営墓地の登場について
→石川の都市計画を踏まえて、公園的で人が集まる空間に
2000年になると、より開けた空間に。墓地としての意味合いに変化が見られていく。
石川さんについて→東京、名古屋を中心に活動していたが、晩年に指導者として沖縄に
滝口さん:沖縄の伝統への意識はあったか?
→石川さんの論考を見るぎり、そのような意識は見れない
石川さんはヨーロッパの事例を調査しており、必ずしも沖縄の死生観には合っていない
青井先生:石川さんは合理主義的で一辺倒の都市計画家ではないのではないか
都市化の流れの中で、人々が受け入れて同居可能なものとしての意識があったのではないか。
→確かにそう 米軍の流れに対しての、沖縄的なものを残したい意識
青井先生:環境造形文化、技術としての墓地がその当時どのようにして社会と結びついていたか。そして、公共化際にその変化に対して沖縄の人がどのように受け止め、どのように議論していたか。それを越中がどう捉えるか。
沖縄の開発史はおさえた方がいい。
沖縄の複雑性→戦後、米軍の占領統治にあった沖縄が日本の本土に復帰した際に、米軍は残るが、日本の土地
本土の人は開発の支援(税金)→公共事業に対する予算がでかい
文化、観光、アメニティに強い意識
〈チャット〉
青井先生:地目(=ちもく)
-3つの墓地モデル(沖縄県)・・へえ!
って2000年?
-モデル
家や死生とむすびついた環境化の技術・文化であった墓地が、「公共化」される。それをれいちゃんはどう受け止める?
家や死生とむすびついた環境の見立てと造形の技術・文化。
- 石川栄耀はなかなかの人なので、単純に墓%3D不衛生と彼が蔑んでいたわけではないだろう。むしろ、都市化のなかで一般市民が受け入れ可能なアメニティに墓地を転化すること、なんじゃないかな。
- つまりどんな批判や議論、もめごとや事件などがあったか?- 裁判とか。
- 墓地の伝統的なありようが「あたりまえ」のものであったとき、それは自覚的に守るものではなかっただろうが、開発によって移転等を余儀なくされるなかで「伝統」が意識(創出)されていくのではないか。
- 沖縄の開発史。そのなかでの伝統・固有性意識の形成。