山下夏海|M2|20200723|研究発表+討議
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M2 山下 「平取沙流川流域のアイヌ環境について」
今回は、平取のアイヌ環境、地形、景観などについての調査
■イザベラバード『日本奥地紀行』(平凡社2000):1878年に平取(平取本町、二風谷の記録?)を訪れた際の記録、当時は未開地のままアイヌ環境が根強く存在する地域であった
・平取本町、二風谷アイヌについて
周辺環境:沙流川周辺は湿地帯で雑草が生い茂っており、少し離れた高台の台地にアイヌ集落が点在、肥沃でない土地
信仰、儀礼:熊送りの儀礼、祭りの習慣は山のアイヌと海岸のアイヌでかなりの相違がある
住居の空間構成:あらゆる家の様式は同じで、相違しているのは大きさや仕上げ材や取り付け物だけ
義経神社に対するアイヌの崇拝:先住民族であるアイヌ民族を懐柔するために極めて意図的政治的に持ち込まれた概念では(和人とアイヌの信仰の重なりで同化させやすくさせる)
■明治以降の和人との接触
平取本町地域:和人入植明治19年、高台→川際の低地→山際の微高地に集落移動
二風谷地域:和人入植明治20 年代、同化政策によりアイヌの共同体(イオル)が抜本的に解体される
<議論>
滝口:平取はアイヌ文化が色濃く残っている地域であるのはなぜか?
→アイヌの聖地とされている、アイヌ人が他の地域より先に住んでいた、空間的視点で地形と集落の関係性が追いやすい
近代の政策にある程度対応できた(上川盆地→一方的な政策として捉えられているが、平取→アイヌの主体的な動きが捉えやすそう)
青井:ここがアイヌの文化を相対的にせよよく残しているのに、歴史的様々なプロセスが含まれているのではないか
政府が比較的温存するべき場所として位置付けられていたのか、平取側で政府に交渉などがあったりしたのか適応などがあったのか、〜パーセント残ってる、とかでなく変容した形で残っているという可能性もある(大概文化が残っているのは時代に即して変容するから残っている、オリジナルではない)
イザベラは平取にどのくらい滞在した?
→平取には3日くらい、ヒアリング調査、他の地域も回ってる
海岸のアイヌと平取のアイヌでは相違があることが明らかになってる
資料批判、資料相互比較して利用
滝口:海岸のアイヌと山のアイヌの違いについてくわしく
→和人との接触が早いのが海岸、交易してたものも違う
平取の肥沃じゃない土地→和人の手が入るのが遅れた
開拓の仕方も違う、海岸では和人がそこに家を数件立てて一緒に住みながら開拓、山側では和人が住むことなく一気に開拓
〈slack〉
青井先生
@山下夏海 視点をくっきりさせるために、他地域・他民族を扱ったものであっても、理論的なフレームがしっかりしているものを参照するタイミングですね。
いちどR・ウォーターソン『生きている住まい―東南アジア建築人類学』の目次を見てみてください。人類学的に空間環境の「世界性」を捉える視点が網羅されています。ただし、建築と集落が中心で、広い意味での環境という視点は弱い。そのへんは80〜90年代の研究(人間中心)と、2000年代以降(人間以外の視点が強くなる)との大きな違いだと思う。時代的なこともあるから、ロクサーナさんを攻めるわけにもいかん。
他方で、なつみちゃんはロクサーナ女史と比べて歴史的な視点が強いから、それは忘れないでね。
滝口正明
いろいろ興味深い内容でしたが、ゼミ中で質問できなかったこととしては、義経神社ですかね。
近世後期にアイヌ民族への宥和政策の一環として、義経を祭神とする神社創建が行われていたことは、大変興味深いことだと思いました。義経と言えば、悲劇の武将として、多くの義経伝説(実は平泉から蝦夷地、モンゴルへと逃れチンギス=ハンになったなど)を生み、江戸時代には庶民(和人)に広く親しまれていた存在だと思いますが、それがアイヌの地に最初に創建する神社の祭神として選ばれる、というのは注目すべきことだと思います。本州では比較的珍しい祭神(東北北部での事情はあまり知りませんが)である「義経」という人神的性格とアイヌ民族の信仰との親和性があったのでしょうか。
また、この事例は神社創建ということが侵略政策において極めて有効かつ重要であり、日本史の中で伝統的手法であったことを示していますね。
山下夏海
@akihito aoi ありがとうございます。青井先生からお借りしている本で何冊か参考になりそうな本がありました。ご紹介いただいた本含め、自分の中で理論のフレームを少しずつ整理していこうと思います。
青井先生
(滝口さんのコメントを受けて)
神社の祭神論、ここではとくに新しい神社をつくる際の祭神設定論というようなことですね。僕の場合は、近代植民地の神社から入ったのですが、これはどこでも重要な問題でした。
民間の場合でも、たとえばソウルの日本人移民は出身地がいろいろなので、その移民団が営む神社(これがのち京城神社という都市鎮守になる)の祭神設定だってけっこう難しい。結局、天照大神になるんですが、それは理屈と歴史を呼び出して決まる。理屈は、出身地のローカルな神を超える、みんなに妥当する神を選ぶのがよい、歴史は、近世とくに幕末には国内でそういう事例が多いのでそれにならえ、ということです。
朝鮮神宮(植民地朝鮮全土の鎮守)などになってくると大変です。天照大神(理念上のはじまり)と明治天皇(現在)とで朝鮮の歴史をはさみこんでしまうような祭神設定になりました。
しかしこのようなことは、古代から豪族支配地を朝廷が傘下に入れていく動きに必ず伴ったはずですね。あまり一般化しすぎると非歴史的になっちゃいますが、国土の編成はそのプロセスを考えるとつねに植民地的な事態を伴いながら進んできたということですね。
山下夏海
@滝口正明 滝口さん、ご指摘ありがとうございます。義経神社に関してイザベラの記録では、鎌倉時代に義経がアイヌの人々に農耕や船の作り方、操法などを伝授したことが伝説として存在し、アイヌの聖地であるとともに義経伝説の聖地であるといった理由から、アイヌの人々に信仰をもたらしていました。(アイヌ世界の信仰とは違った、平取特有の信仰だったと思います)
しかし、義経神社と義経の伝説は江戸時代に建てられ、伝説が盛んに喧伝したと政策史側の記録から散見でき、政治的意図があったと考えられます。
和人の入植、開拓の際に和人とアイヌの信仰を重ねるような動きはいくつか見られるので、そこでの変化から環境世界の手がかりが獲れないか引き続き探ってみます。