勝部 直人|M1|20200702|研究発表+討議
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M1 勝部 近代大学成立と公共性
今回はドイツ都市史に着目しながら近代大学成立における公共性について考えたい。
1701 年にプロイセン王国を形成された。ドイツ民族の居住圏はプロイセンとオーストリアという二大国を中心に他にバイエルンやザクセンなどの領邦国家に分裂するという状態が続いたため国家的統一と市民社会の成立という近代国家の形成は大きく遅れていた。
18s後〜19s前 ナポレオンのヨーロッパ侵略→貴族の封建制度廃止、人権と自由という近代社会の理念がドイツに持ち込まれる
プロイセンの改革→ドイツ人の民族的自立と文化の再建→国家と市民主導の近代大学の誕生
フンボルトの起草した『フンボルト大学の設置に関する完璧な構想』
「国境を越えた影響力を国家に与え、ドイツ語圏の国民の人間形成に作用することができるのは、大学のみである」
この大学の建学の機運は,1806 年 10 月のイエナの戦いを契機として起こった世論の高揚,すなわち王都に大学をつくろ うという熱意と願望に醸成されて、一気に進展した。
ベルリンにおける都市の「公共性」、用途の変化
ヨーロッパでは、「公共性」とはすなわち、教会と王権からの人々の解放であり、彼らが独占していた空間や土地の解放を意味する。
<フンボルト大学>
旧ハインリヒ王子宮殿を基礎として拡充(1809年以降)建築師ゲンツが手がける。
<ムゼウムスインゼル(博物館島)>
ベルリン美術館を構成する5 つの博物館・美術館が集まっている。中州の北半分は元々住宅地であった。1830年に旧博物館が建てられ、1841 年フリードリヒ・ヴィルヘルム 4 世が一帯を『芸術と科学』に関する地域とした 一般市民でも芸術を通じて包括的な人格形成が可能になるべきであるとするこの思想は徐々に社会に浸透し始めていった。
・旧博物館:1830 年に建築家カール・フリードリッヒ・シンケルが設計、新古典主義様式、前方には王宮の庭園がある
・新博物館:1859 年にシンケルの弟子の一人であるアウグスト・シュテューラーの設計、新古典主義様式
<ベルリン州立図書館>
1661 年にプロイセン公フリードリヒ・ヴィルヘルムによって設立された。 1701 年にベルリン王立図書館、1918 年にプロイセン国立図書館にそれぞれ改称された。王家専用の図書館から市民の図書館へ(現存しているものは1978 年ハンス・シャロウンの設計のもの)
・王の土地や建物→市民の学びの場へ、
・教会と王宮の庭園の一般市民への解放、
・プロイセン王室の建築家が公共施設を設計
-まとめ-
系列の補足です。
1701年 プロイセン王国の形成1702~1786 フリードリヒ2世と旧ハインリヒ王子宮殿建設
1806年 イエナの戦い(ドイツ敗北)
1807年 プロイセン改革
1810年 フンボルト大学誕生
1814年 ウィーン会議
1841 年 フリードリヒ・ヴィルヘルム 4 世が一帯を『芸術と科学』に関する地域へ
王が主導で自ら王宮や土地を差し出して公共施設、大学の設立に協力した。
→ドイツ人の民族的自立と文化の再建が急務だった。
神学を軸にした中世大学→哲学を軸にした近代大学(近代大学の建築が新古典主義なのは啓蒙主義も背景にあるのでは?)
<議論>
和田
フンボルト大学の様式?旧博物館(新古典主義建築)の設計と間20年くらいあるが様式の差はあるのか?
→もともと18世紀のフリードリヒ2世の時代に宮殿として建築された。都市と建築との構成としてはバロックに近い。
和田
社会の変革との関係で増築にはどのような建築様式が用いられたのかを調べた方がよい。
青井
意味が転換して大学に変わる、今日調べたことをより具体的に勉強していけば良い。ドイツの国家としての成立と大学っていいうものがどういう意味を持ってどう位置付けられるのか、フンボルトはどういう理念でどういうカリキュラムで大学を創立したのか?それと建物の関係はあるのかなどを考えていこう。
滝口
日本では大学入試が大きな機能を果たしているが、ドイツはそうではない?(入学方法の特異性)その辺り興味ある
→ドイツでは早い段階で職人になるひとと教育を受ける人で区別がある、どういう基準で大学を選んでいるのか、どういう仕組みで大学入るのか、、はまだ不明
青井
箱のことだけ、様式のことだけではなくそういった内情も一緒に勉強しながらこのまま深掘りしていこう (編集済み)