勝部 直人|M1|20200507|研究発表+討議
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M1 勝部 教育機関の空間変遷とそれらを取り巻く哲学思想
1、日本における高等教育機関の歴史(大学誕生以前)
藩校、漢学塾、蘭学塾
2、大学制度の移植
屋敷構えを持つ公共建築の考えが、大学にも全く同様に導入された。江戸城周りの屋敷の跡地に大学が建てられた。
西洋における修道院から大学への空間的転換 宗教と大学
面的に広がっていった。
ボローニャ大学のアルキナンジオ
→学びの場とともに集団生活の場であった→ケンブリッジ大学の形成に続く
3、都市の構造と大学
大学と都市をつなぐもの→広場、街路など
4、教育における哲学との関係
ルドルフ・シュタイナーのゲーテアヌム
中世大学における主な学部は神学部、法学部、医学部
→ベルリン(フンボルト)大学が哲学思想のもと大学の誕生
今までの大学は宗教を軸に学んでいたが哲学が軸になった→近代の大学における分岐点
5、バウハウスにおける哲学(調査中)
哲学+教育+教育の空間
ー議論ー
なぜ屋敷跡地になったのか?
→広い敷地の確保ができたから。江戸城の周り(首都近辺)における広い場所が確保できた。
石原
屋敷跡地は私大が多いが他の大学はどうか?地方など。
→地方では個人塾などが大学へ形を変えたものもある。
(青井)明治維新とは武士階級が支配していた土地などを国が所有するという激変が起きたもの。国家がどこにどのような施設を置いていくのかを考えた。東京大学はイギリス流の雰囲気がある。
滝口
修道院の増殖の形が元だと言われるが、宗教や哲学や近代化によって
→中世のヨーロッパの大学はそのまま使われている。ドイツやアメリカは近代化と哲学によって形が変わってきている。
(青井)大学がどのような歴史があるのだろうかということを発表していただきたい。ヨーロッパの学問は「神」が世界を構築してくれたという信念があるが、中世以降はこの部分を理論武装していく。解読していくことはできる、これが学問である。神が作ってくれているということでケプラーなどは信念として持っていたがために学問を進めていけた。のちに、人間の理性こそが神であるという哲学となる。その発生が学問や教育にどのような影響を与えたのか。庭と学問や教育、宗教との関係がみてみたい。中国では「院」が庭という意味を持つ。(宮殿でも大学でも裁判でも同じ)。
李
思想や哲学が関連すると面白いと思った。
→僕も哲学分野の勉強が不十分なので勉強したい。
中西
哲学や思想は変わりやすいが、それが増改築などでもどのような変化が起きたのかが気になった。
→参考にして調査していきたい。大学建築の図面から調査していきたい。
(青井)学問と宗教と大学(教育)のそれぞれの歴史を見ていくと良いかもしれない。キリスト教は死ななかった。ゲルマン民族などは知識などが全くなかったがために、キリスト教が与えた。それによって、共存をしていった。中世の混沌としたもののなかで修道院がギリシャの学問を自己流に保存していかなければいけなかった。イスラム教によってヨーロッパに逆流していくことでルネサンスが起きていく。学問は歴史のダイナミズムに大きな影響を与える。
(参考)ゴシックとスコラ哲学。ゴシックはギリシャのスコラ哲学で説明できうる。
勝部
大学を取り上げてきたが、ゲーテアヌムやバウハウスを扱っていきたいが、哲学と哲学に関する面白い話があれば教えて欲しい。
→(青井)バウハウス叢書や先生たちを親方と呼び、の宿舎を設計するなど。パブリケーションなどを一帯にやっている。アーキテクチャというフランスのアカデミーから始まる言葉があるが、ドイツ人はそれを嫌い、「バウハウス」という言葉を使っている。「手で作る」「材料を大事にする」といった意味を尊重した流れがある。中世の誠実さのようなものを大事にしてバウハウスを作ったという説もある。材料を信じるという考えが宗教、神に対する敬意であるとした。理論とは関係なく、誠実に作る。
ゲーテアヌムについて。第一次世界大戦との関係が深い。国民を動員したということが世界初。つまり国民国家と国民国家の戦いであった。体育という教育を作った背景にもなった。庶民における精神的なショックが大きかった。それは、スピリチュアリズムなどのようなものを発進させていった。ゲーテアヌムはこのスピリチュアリズムに通づるところがある。子供の精神的な部分をどうやって引き出すかという教育など(演劇など)。
<on slack>
水原
@先程はミュートのまま喋ってしまっていてコメントできなかったので、感想のような感じですが一応ここで発言しておきます。
日本の大学は国によりトップダウン的に計画され作られたのかなと思いましたが、ヨーロッパに関しては宗教施設等で人々が集まってできた場がそのうち大学という建築の中で行われる形式になったということだったと思います。
そのあたりのトップダウン的、ボトムアップ的な思想の違いは大学施設の形式に見えてきたりするのでしょうか。
勝部
コメントありがとうございます。水原さんが言う通りおおいに影響していると思います。日本は1886年帝国大学令が出され官僚養成機関として誕生します。なので完全にトップダウンですね。ヨーロッパはギルドという学びの組織から発展していきます。しかしヨーロッパにも国家主導で威光を示そうとするいわゆるトップダウン的な宮殿形式と呼ぼれる大学も登場します。前回の資料の2枚目に少し載っています。また日本の大学は文科省が管理していますが、他国の大学はどうなのか?他国の大学の管理の仕方まで調べてみようと思いました。
滝口
大学の中庭問題は大変興味深いです。
中庭にはおそらく広場的な意味もあると思うので、ヨーロッパの都市が広場を中心に作られている、という時、大学都市における中庭≒広場なのかもしれません(推測ですが)。中庭と広場の違いは、修道院の中庭は回廊で囲まれていることですね。対して町の中心にある広場は、教会や市庁舎などの重要な建築のファサードが面しているという印象です。
日本の寺院における中庭は、奈良時代〜平安初期の寺院で普及しましたが、その後衰退していきました。この辺りの経緯や寺社宮殿の中庭の用途に関しては、井上充夫『日本建築の空間』鹿島出版会に詳しいです。
修道院や大学での中庭の用途がわかったら、ぜひ教えてください。まさに中庭をめぐる「東西の比較論」ができますね。
勝部
滝口さん なるほどですね。日本の寺院における中庭にも手を出してみます。本の紹介もありがとうございます。