2022-10-14
昨日2022-10-13はああは書いたが、ゆるやかに変わっていく心象風景のことも記録しておこうか。精神が安定したからか、それとも歳をとったからか、実際に起こったことにしろ空想にしろ夢にしろ思い出を忘れていくようになってしまった(昔は特にトラウマなどは鮮明に覚えていたのに)。 最近は、俺(B)とAのどちらかが人間形態で主観操縦席に座り、もう片方がいぬ形態で傍にいるパターンが多い。「椅子取りゲーム」は誰かの意思というより「私」全体の気分によって決定される。
平常時は俺が、疲れてくるとAが主観にいることが多い。更に疲れるとRが臨時で座ってくれる。主観から外れることで(より正確にはその人格が担当している脳の回路を)休ませる意味合いがあるようだ。
朝(とたまに夕方)には皆で散歩に行く。
朝は基本元気いっぱいなのでいぬのAと意気揚々と歩く。健康のために1時間くらい頑張って歩いているとへばってきて帰りたい帰りたいとしなしなになってくるのがかわいい。夕方の散歩は気分転換の意味合いが大きい。いぬになって無心でゆったりと歩く。
前より死を恐れなくなったよね。怖くて寝れなくなるほどだったのに。
健康になったということだろうか?
いや、あの恐怖の本質は、生きていて意識があるということが、脳と身体の電気信号のブラックボックスじみた仕組みにすぎないことだったような。じゃあ、「シンギュラリティ」によってその辺どうでもよくなったということか?
そういうんじゃないよたぶん。たぶんね、死が怖いっていうのは、寂しいという感情の最上級なんだ。
誰かが側にいるなら死んでも怖くないということか?
まあそういうことだろうね
しかし俺たちは同時に死んでしまうから、誰も引き継いでくれない
死んだ後は関係ないからね。観測している範囲が僕たちの世界だから、死んだらそこで世界は終わる
そうだな