2022-08-18
作品というのはエンタメ目的のもののみではないと思った。
学校で先生がひたすらにエンタメを作らせようとしてくるのが合わず、どうしてこんなモヤモヤするのかをずっと考えていた。
俺が作っているもの、作りたいものはなんだ?
つらくなったときは、かつて俺の人生を救ってくれた「アディオス」「Timelineの東」あたりの平沢曲を聴くのだが、それで気づいた。「祈り」「自己救済」、あるいは「悲鳴」だ。
(ここから平沢進語りになる。また、平沢進の「作品」とは曲だけではなくインタラクティブライブのストーリーなど関連作品群、彼の公式Twitterなどのアーチストとしての立ち振る舞いなどの世界観すべてを含む)
実際「救済の技法」という曲・アルバムがあるように、平沢進の作品群は「救済」が根源にある。そしてそれは、(最近はお年を召したのか他者救済の香りが強くなってきているが…)まずは彼自身のための「自己救済」であると思っている。「ナーシサス次元から来た人」という曲と、それに関連するブログ記事( https://susumuhirasawa.com/phantom-notes/2007/10/14/78 ) を参照すると余計そう思う。彼はかつて逆境にあった過去の自分に語りかけている。そして彼の作品がこんなに俺(ある種のヒト)の心を打つのは、俺がかつての彼と似たような逆境に居るからなのだろうと思う。「自己救済」は間接的に他者救済になることが多々ある。
俺は若い。成熟度的にも、時系列的にも、語りかけられる側の立場である。平沢進の作品の中でも、彼が同じように若かったころ…P-MODEL中期以前の曲を聴くと怖いくらいに共感するものがあることに驚く。有名な「美術館で会った人だろ」を聴くとすごく切なくなるし、「リトルボーイ」は正に今の逆境・葛藤にドンピシャだった。この頃のその他の曲を聴いても、感じるのは、ただただ、「悲鳴」。本当に俺が作るものに似ている。制作してうまいこと吐き出すことで楽になる類のもの(表現力とは、いかにうまいこと吐けるかという技術だ)。今の俺が作るべきもの、作りたいものはこれだ。そして成熟すれば、それは「救済」に向かっていくのだろう。俺はなんだかんだ平沢フォロアーだ。
さて、「救済」「悲鳴」はエンターテインメントだろうか。違うだろうな。「悲鳴」はもしかしたらエンタメになるかもしれないが、趣味が悪い。真剣に耳を傾けるべきものだ。
そして、アートとデザインが二分できないように、救済とエンタメも二分できないものだと思われる。「救済」作品であっても外に出す以上は観衆を楽しませるため…そしてそれ以上に自分自身を楽しませるため(もしくは誤魔化すため)にエンタメが要る。しかしエンタメのみの作品は俺にとっては薄っぺらく感じる(必要が無いとは決して言わない。偶にはファストフードも無性に食べたくなるだろう)。悲鳴だったり、主張だったり、問いかけだったりを観衆の心に届かせ食わせるためにはエンタメというスパイスが必要だとも感じる。エンタメは道具だ。
「自己救済」や「悲鳴」は普通金にならないだろう(平沢くらい真摯に辛抱強くやればあるいはという感じ。彼も初期はかなり苦労していたようである)。しかし、生き抜くために必要なのだ。金が生き抜くために必要なように。否定・あるいは無視されようとも、栄養を取り悪いものを出すことは大事なので続けていく。
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余談。俺を含めて、哲学・芸術系の思想を持っている(芸大とのダブルスクールのやつもいた)生徒は実際に脱落したり、俺みたいに半脱落状態みたいになっているようである。講評会でボロカス言われればそりゃな。それだけ先生のエンタメ・デザイン系の思想と合わないのだろう。エンタメ系、それも映像系のものを作りたいのなら合うと思う(ゲーム系の話は全然出てこない…)。良い友人ができたのでまあ良いのだけど。思想は合わないけど知識・経験は本物だし。
愚痴ばかり書いているな(誹謗中傷とか営業妨害とか言われたらどうしよう)。制作姿勢について深く考える機会ができたということでよしとしよう。
#Diary