2022-08-13
俺は制作というか哲学をやっているのではないか。
学校、というかメインの先生との方針のズレを感じる(入学前はそんなこと微塵も聞いてないので困る)。
制作物に対して、意図がわからん説明しろ説明しろ説明しろと言われる。まあそれも分からん話ではなく、「デザイナー」「ディレクター」としては必要な能力だ。ある程度は俺だってなんも考えずに作ってるわけではないので一生懸命説明する。しかし全然足りないらしい。
扱っているテーマに問題がある。先生は「エンターテイメント」を欲している。もっと言えばおそらく「大衆映画」を欲している。大勢の人たちを喜ばせてお金をもらう作品。俺の作品は対極にある。基本的に自分のために作り、ごく少数の人間に伝われば成功と言えるような作品(そういうのをアートと言うと別の先生が言っていた)。
俺の作品は基本的に俺の心理を題材・テーマとしている(本当は人間の心理一般を扱いたいが、他人の心は死ぬまでわからない)。自分の心であっても完全にわかるということはない。でも俺は極力自分の心を理解したいし、それを表現したい。先生に言われなくとも、俺はあらゆる手段で毎日数時間は自分の心に向き合って問い続けている。それでもわからないのだ。そうやって出力されるものは、自分ではこんなに明確になった!と思っていても、夢日記のように意味不明なものになっているらしい(俺の心自体が共感されにくいものであるのもあるかもしれない)。
心というのは、わかりやすく表現を整えてやると、「表現に引っ張られ」てすぐに元の方がそれに変質してしまう。原典厨の俺はそれを酷く嫌う。多少解られにくくても本質に近い言葉・表現を選ぶ。わかりやすく、使いやすくするデザインと逆だな。とはいえこれでも妥協できる範囲でわかりやすくしているつもりだが…。本当に。これは本当。私的なノート以外にネットに載せる文章をこうやって書いているのはその練習でもあるんだ。
自分の心がまずあって、その理解を深めるために問い続けてなんとか書き留めて考察を進めるというプロセスは、哲学に似ているのかもしれないとふと思いついた。哲学については恥ずかしながらほとんど知らないのだが(大学時代に現象学の授業が面白くてちょっと調べた程度、また勉強したい)。実際、俺は創作活動がしたいというより哲学がしたいんだなと思うことが多々ある。スケッチとかモデリングするよりもこうやって考察してる方が楽しいのだから。
哲学も一人でただ考えるだけではなくて議論したり、書籍になったり、批評したり、他人のを取り入れたりする。おそらく哲学とは言われていないだけでアートになっているものも多くあると思う。俺はそういうことがしたいんだと思う。他人の思想を覗くのが好きだ(作者と作品を分けろとよく言われるが、作者の思想が見えない作品には興味が湧かない)。
先生は俺の企画とか作品を見て、「どういう意図なんですか?」「わかりません」と言う。最大限説明しているつもりなのだが。まあそこは素直に俺の力量やメンタルが雑魚という面も大きい。しかし何かフラストレーションを感じるのは、たぶん俺も「じゃあ先生はこのテーマに関してどう考えますか?先生の心はどうですか?」と聞きたいのかもしれない。また、「わからない」とそこで終わってしまうんじゃなくて、「こういうことなのかな、違うかな」と考えて欲しいのかもしれない。別に違っていてもいい、歩み寄って欲しい。ただそれは、クリエイターを養成したい学校の趣旨とズレるし、先生も暇じゃないんだから、俺の方が間違っている。俺はここでも不良優等生だった。