佳境院
佳境院は、岡山のド田舎に住んでいた。その家から車で2時間くらい走らせたところにブックオフがある。5年くらい前にそこにつれていってくれて、佳境院は「ここにくればなんでもある」と言った。私は、そこにあるものが世界の全てみたいな言い方が、私はもっと便利な街に住んでいるから、悲しかった
そのブックオフから、家に帰る途中に、お笑い芸人の千鳥のノブの実家がある。佳境院が「ここが千鳥のノブの実家だ」と言った。
昔、東京の友人たちと千鳥のライブを見たことがある。私は千鳥は興味なかったのだけど、3人でルミネざよしもとを見に行こうと提案されて、多数決的に千鳥の出てくる寄席を見た。
千鳥のノブの実家。この2時間の道で見られるもの。
だから、その友人たちは千鳥が好きだったこと、千鳥のライブを見たことを思い出して「ここが千鳥のノブの実家だよ」とLINEした。ふたりともが「知らねーw」というようなことをいって、まあそりゃそうだよなと思った。思ったし、その通じなさにすごく悲しい気持ちになったのだ・・・・・
そういうことがある
私はそういう断片的なエピを漫画にすることに時間と興味のエネルギーを投入して、社会的関係資本を減衰させている。コミティアでリリースして、そういう気持ちを承認して欲しいと思っている
通じないこと、理解されにくいことを表現に残すことは、その体験への仕返しで、自分が誠実さだと思っていることも、多様なあてつけの形態のひとつでしかない
対話ではなく表現での昇華を選ぶことで、未来の関係性を破棄している。昇華にかかる体力の消耗や、技術的な成長や、感情を人に伝えることの達成感を味わうことに集中して、その代償から目をそらしている。
受験勉強とかもそういうもん(選択と集中的な)と思うと別に気にしなくていっか・・・とこの問題を軽く捉えたい気持ちはあるけど、人間関係の中の感情を扱うことって、私だけの問題ではないので、諦めるのが早すぎるとか、"そんなしょうもないことよりもっと重要なこと"があるでしょうとか思う 
でも対話をできるかぎりやって、そのうえで通じないこと、理解されにくいことに苦しむこと、私の考えが私ではなく相手によって定義されることがあるのなら、やっぱ私の対話には限界があるということで、表現を始めることになる
そうして私は佳境院によく似ていってしまう。